寮の自室に入るなり、ケータイが鳴り出した。ディスプレイに表示されたのは「CALLING 新開隼人」の文字。
「やぁ尽八。今、靖友と一緒にいるんだが、これから来てくれないか?」
場所はどこだと訊けば、女子寮の前だという。なぜそんな場所? と思ったが、いくら新開に訊いても「まぁいいじゃないか」の一点張りで答えてくれなかった。しかも時間がないから急げというオプション付きだ。だから着替えもせずに制服のまま部屋を飛び出したというのに、実際に行ってみればそこには新開の姿はなく、代わりにの姿があった。なるほど。道理で女子寮の前ということか。一緒にいると言っていた荒北はたしかにいたが、「オレは帰る」と言って東堂が来るなり早々に帰ってしまった。ぽつんと取り残された東堂と。……つまり、してやられたということだ。
今、東堂はと向かい合っている。荒北は彼方へと行ってしまった。このまま重たい沈黙が続くのかと思っていたが、先に口を割ったのは意外にもの方からだった。
「ねぇ東堂くん。急で悪いんだけど、私と靖友の話、聴いていってくれない?」
荒北との話……。そういえば、あの時、自らに荒北の話を振っておきながら結局最後までは聴いていなかったことを今更思い出した。あの時はに大事に想われている荒北が羨ましくて、荒北と同じように、いや、荒北以上に自分のことも大事に想って欲しいと願ってしまった。気がついたら誘われるように、荒北のことを話すの唇に自分の唇を重ねていた。
後悔はしている。自分の思い描くラブストーリーではきちんと好きな人に好きだと伝えて、相手の気持ちを確かめてからキスするものだと思っていた。でもあの時はそんなストーリーの欠片すら頭の隅から消え、衝動のままに行動を起こしていた。理屈じゃないんだ。あれがきっかけで、自分はのことが好きなのだと確信をした。ただ、その確信を得た代償に、あれ以来、は逃げるようになり、まともに話すことができなくなってしまった。今度こそきちんと好きだと伝えたくてもそれすら叶わない。永遠にも思える螺旋階段をのぼっているようで、出口が見えずにいたところに新開からの呼び出しだ。……実際、新開はいなかったが。
はぽつりぽつりと荒北とのことを話し始めた。適当に相槌を打ちながら聴いていたような気がするけど、実際はどんな風に聴いていたのかはよく覚えていなかった。ただ、の話の内容だけは流れるように頭の中に入ってきた。
まずはと荒北のつき合いの長さの話からだった。小学校から入学した時からずっとクラスが一緒。気がついたら必ずそばにいて、それが当たり前だった。進学先がバラバラになる高校はさすがに別れるだろうと思っていたけど、いざ入学してみたらやっぱり同じ学校にいて、しかもまたクラスまで同じだった。
なんだそれは。マンガの世界だったら間違いなく、運命の赤い糸で結ばれてましたってオチになるパターンではないか。
そして中学の時に事件が起きた。詳しいところは話してくれなかったが、それがきっかけで荒北はおかしくなったという。荒北の栄光は諸刃の刃だった。一度登りつめたものが地に墜ちていくのは容易いことだ。その全てをは見てきたという。
「だから、私は靖友が大事なの」
言われなくてもわかっている。だが、改めて本人の口から聴かされると切ないものだった。
高校に入学し、荒北は福富と会い自転車部に入部。そこからは東堂も知っている。だからと言って何になるのだろうか。東堂が知っているのは「すぐに辞めそうなヤンキーの入部、それを追うように入ってきた」ぐらいだ。二人の今までの話を聴けば聴くほど入り込む余地がないように思えてきて、東堂は奥歯を噛みしめた。
「これで私と靖友の話はおしまい」
最初から聴いて気分がよくなる話だとは思っていなかったが、それにしてもの話は東堂の心に影を落とした。善人な男を演じるのなら、相手の幸せを願って身を引くのが正解なのだろう。だが、もうすでに「はい、そうですか」と簡単に身を引くことができないくらいのことを好きになってしまった。今更、この感情を捨てることなんてできやしない。
「で、ここからが本題」
感情のやり場を失っていた時、は東堂の方へと一歩前に出た。
「ねぇ、東堂くん。東堂くんがあんなことしなければ、私はこんなに苦しむことはなかったんだよ」
あんなことがあの時のキスを差しているということはすぐにわかった。
「だって、それまでは好きとか嫌いとか考えたことなかったんだもん。自分が誰をどういう風に好きかなんて考えなくてもよかった。みんな同じように好きでいられた。でも、もう無理。みんな同じ好きでいられなくなっちゃった」
更に一歩近づき、は東堂のネクタイをぐっと引張り顔を寄せてきた。東堂は急なできごとに身体がつんのめり倒れそうになったが何とか堪えた。目の前にの顔がある。部室での光景が頭をよぎる。でも今はあの時と違っては今にも泣きだしそうだ。
「私はね、靖友のことを好きになりたかったの。だってそうでしょ? こんなに大事だと思っているんだから靖友を好きになるのが自然な流れだと思わない?」
の悲痛にも似た声が脳内に響く。
「でも靖友じゃなかった。ずるいよ東堂くん。順番ひっくり返して先にキスして、私の感情をかき乱して心を持っていっちゃうんだから」
―― 待て。そんなこと言われたら、
「責任、取ってくれるよね?」
―― 期待をしてしまう。
ネクタイを掴むの手に力が入った。
「好きだよ、東堂くん」
その言葉が頭の中で甘く響いた。今この瞬間が夢のように思う。夢じゃないことを確かめたくて、東堂はの濡れた頬に手を添えた。指先には濡れた感触とのほのかな体温が伝わってきた。これは夢なんかじゃない。
こんな至近距離で好きだと言われて、しかもそんな顔をされて、何もせずにいられるわけがなかった。それにもきっとそれを望んでいる。東堂は慈しむようにの頬を撫でたあと、二人の間にあるわずかな距離をゼロにした。
一方的じゃないキスは甘美なものだった。うっすらと目を開けての顔を盗み見てみると、その閉じられた瞳からまた一筋の涙がこばれるのが見えた。その涙を拭ってやれる権利があるのは自分だけだ。そんな甘い優越感が東堂を支配した。
「順番が逆になってしまってすまない。先に好きになったのはオレの方だというのに、結局、に先に言わせてしまったな」
「もういいよ。どうせ、辿り着く先は変わらなかっただろうから」
「それでも言わせてくれ。女だけに言わせておくというのは性に合わん」
普段言葉がきつかったり、愛想がないと思いきや時折見せる優しさも、無表情だったり、いたずらな笑みを浮かべたり、泣いたりする顔も、ネクタイを掴んでいた手も、涙で腫らして赤くなっている目も、荒北を大事だと言うその気持ちも含めて、髪の毛一本の先までとにかくをまとうその全てが、
「好きだ」
瞬きと同時にの両目から涙がこぼれた。それを指先で拭ってあげるとは突然後ろを向いてしまった。
「あ、改めて言われると、けっこう恥ずかしいものだね」
そのしぐさが可愛くてもう一度抱きしめてキスをしたくなった。でももう焦る必要はない。これからはゆっくり共に歩いていこう。
「もう遅いし、帰りましょ」
「それもそうだな」
名残惜しいがいつまでもここにいるわけにはいかない。明日も学校だし、何より遅くなりすぎると寮母からお咎めをくらってしまう。別れが惜しくても、心は繋がった。それに明日も会える。
「あ、そうだ。東堂くん、明日鍵当番でしょ?」
「ん……。あっ、しまった。鍵…っ!」
「大丈夫」
はくるりと振り返り、その手には部室の鍵をぶら下げていた。目元はまだ赤いが、いたずらな笑みを浮かべている。
「鍵はここにある」
「そうか、あり……」
がとう、と受け取るつもりで手を差し出したが、はその鍵を自らの手中に収め、鞄に仕舞ってしまった。
「鍵は私が預かっておくわ。……だから、明日の朝は一緒に行きましょ」
照れくさそうには言った。
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これでほぼ完結。次が最後です。最後は他の視点からおまけのようなお話です。
2014.08.17