「え、靖友……?」
荒北から学校を辞めると聞いてから1週間。あれからぱたりと荒北が学校に来ることはなかった。それなのに、なぜか今朝はホームルームが始まる前にちゃんと登校してきて、自分の席に座っている。しかもよりも早い登校だ。中学の時ですら、まともに朝は学校にいなかったというのに……これは異常事態だ。
それでも机の上に相変わらず置かれているペプシが、ほんの少しの安堵を与えてくれた。
「来ちゃわりィかよ」
が間抜け面でペプシを飲む荒北を見て固まっていると、の心を察したかのような言葉が返ってきた。
「そんなことはないけど、どういう風の吹きまわし?」
これがもし、この日限りのことだったら、ただ暇だっただけなんだろうとか、ちょっと気が向いただけと思うだけで片付けていただろう。ところがこの日を境に荒北は毎日きちんと学校に来るようになった。しかも悔しいことにいつもよりも早い。しっかりと授業を受け、放課後はホームルームが終わると早々に教室を出ていく。最初は原付でも乗りまわしているのかと思っていたけど、どうやらそういうわけでもないらしい。そして何よりも雰囲気が変わった。言葉は変わらず悪いし態度も散々だったけど、少なくとも他人を寄せ付けないオーラをまとった空気がなくなったように思う。
―― 私の知らないところで何かがあったんだ。
一体何があったのか。それは意外と早く知ることができた。
ある日の放課後、校門を出て街へと続く坂道を歩いて下っていると、バランスの悪い自転車が脇をすり抜けていき、の目の前で転倒した。けっこう派手な転倒だった。は大丈夫かと声を掛けようとしたが、気がづいたら物陰に身を隠していた。
まさか、それが荒北だとは思わなかったから。
―― 何やってんのあいつ? ていうか、あんな自転車持っていたっけ?
原付ならわかるけど、自転車……?
が混乱しているのをよそに、荒北は素早く立ち上がり、再び自転車に跨って行ってしまった。もちろん、悪態をつくことは忘れていなかった。そしてバランスも悪いままだ。
一瞬の出来事だったように思う。あれが最近の荒北を変えたものなのだろうか。
あれから荒北の行動を気に掛けて見ていると、荒北は暇さえあれば自転車に乗っていた。朝、よりも学校に来るのが早いのは、毎日朝早く起きて自転車に乗っているからだと気づくのにそう時間はかからなかった。放課後になるとさっさと教室を出ていってしまうのも、やっぱり自転車に乗っているからだ。
それだけ自転車に魅せられたということなのだろうか。なぜ自転車だったのかも気になったが、それ以上に何がきっかけで自転車に魅せられたのかは知りたかった。
だからはその日、自転車部へ行ってみることにした。自転車のことはよくわからない。が知っているのはせいぜいマウンテンバイクくらいまでで、それ以上は知らなかった。
一体荒北を夢中にさせた自転車とはどういうものなのか、自転車部の様子を見てみれば少しはわかるような気がした。
箱根学園の自転車部が全国屈指の強豪校だということはさすがに知っている。それを目的に県外から進学してくる者も少なくない。もちろん、地元の者もいるのだろうけど。
自転車部の方に来てみると、(当たり前だけど)自転車がたくさん並んでいた。そしてさっそうと走り抜けていく人たち。自転車はこんなに早く走れるものなのだと、この時初めて知った。はしばらく立ち止って彼らを眺めていた。
―― なんか、いいなぁ。
みんなきつそうだけど、楽しそう。それがの率直な感想だった。校門を飛び出して外へ走って行く者の中に、荒北の姿もあった。いつの間に自転車部に入っていたんだろうか。協調性の欠片もない荒北が部活とか信じられないけど、みんなと同じジャージを着ている姿は紛れもなく部員の一員ということなのだろう。
「む、あんたは……」
突然の声に振り向くと、金髪に強面の男が立っていた。どこかで見たことあるような。たしか同じ学年の……、
「俺は福富寿一だ」
そうだ。福富くんだ。
「私は」
「、か」
強面の男改め福富は、の隣に並んだ。
「荒北とは親しいのか?」
「何で?」
「いつも、荒北のことを見ていただろう」
ぎょっとした。こっそり見ていてばれていないつもりだったけど、当人以外の者から逆に見られていたとは思いもよらなかった。でもそれってつまりは、
「福富くんもあいつのことを見てたってこと?」
「否定はしない」
そうか。
―― ってことは福富くんなんだね。
あいつを外の世界へと連れ出してくれたのは。
荒北はずっと狭い世界でもがいているみたいだった。外へ飛び出すためには外側から壁を壊すしかなかった。
「福富くんが壁を壊してくれたみたいだね」
「俺は何もしていない。自転車に乗ることを選んだのはあいつだ」
「そう。でもやっぱり同じだよ」
あいつに自転車を与えたのは福富なのだから。
それに、本当に何もしていないなんて言わせない。もしかしたらきっかけを作ったのは荒北自身なのかもしれないけど、それを引き上げてくれたのは福富だ。福富に意図したつもりはなくても、荒北には大きな意味がある。そしてそれはにも……。
「おーい、フク!」
少しずつ外周に出ていた部員たちが戻り始めてきた頃だった。タイミングを見計らったかのように一人の男子生徒がやってきた。頭にカチューシャをつけているのが印象的な人だった。彼の名前が東堂尽八だと知るのは、もう少し後のこと。
「っと、お取り込み中だったか?」
「いや」
「そうか。主将がお呼びだ」
「わかった。今行く」
カチューシャの彼は親指をくっと立てて、後ろの部室を差した。考えてみれば今は部活中だ。こんなところで油を売っていていいわけがない。
「時間取らせちゃったみたいで悪かったね。私もそろそろ行くわ」
いつまでもこんなところにいたら、荒北とも出くわしかねない。は手をひらひらと振りながら二人に背を向けてそこを去ろうとした。
「ひとつだけ訊いてもいいか?」
ところが、意外にもを止めたのは福富だった。
「何?」
「あいつの壁を壊すのはお前でも良かったのではないのか?」
確かに。そう思うのが自然だろう。も自分で壊せるものなら壊したいと思っていた。でも、にはそれができなかった。自分でできるのなら最初から他力本願になったりはしない。
「私じゃダメ。壁は外からしか壊せないの。私もあいつと同じ側の住人だから」
背を向けたままは答えた。
「でも鍵が見つかったから、壊す必要はなくなったみたい」
そう、鍵は自転車だった。鍵を与えられた荒北は扉を開けて外へ飛び出した。再び情熱を注ぎ輝ける世界へ。
「赤の他人である私がこんなこと言うなんておこがましいにもほどがあるけど、でも言いたいから言わせてもらうね」
くるりと身体を反転させては福富と向き合った。この感謝の言葉くらいはちゃんと顔を見て伝えたい。
「ありがとう」
次々と帰ってくる部員たちは、風を切るようにの脇をすり抜けていく。その心地よい風には目を細めた。耳の奥で鍵の音が聴こえる。
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2014.08.05