安室は近くにいた女性の従業員にガムテープを持ってきてもらい、それで強盗犯たちの手足を縛っていった。落ち着きを取り戻しつつある店内は、にわかに騒がしくなりつつある。最後の一人を縛り上げたところで、目暮警部をはじめとする警視庁捜査一課の面々が駆けつけてきた。
「ん? 安室くん。なぜ君がここに?」
「偶然ですよ。お金を下ろしにきたら、たまたま巻き込まれてしまったんです」
「ふうん」
本当かね、とでも言いたげなジト目を向けてくる目暮に、安室は頬を掻きながら苦笑した。店内の奥では佐藤や高木が居合わせた客や従業員たちから事情を聴いている。この様子だと、解放されるまで時間がかかりそうだ。
「安室さん」
突然、ここにあるはずのない声が聞こえてきた。
「コナンくん。どうして君がこんなところにいるんだい?」
外では規制線がはられ、中へは入れなくなっているはずなのに。
「そんなことどうでもいいでしょ。それよりどうしたの、これ。なにがあったの?」
「強盗だよ」
「強盗!? ここってさんが働いている支店だよね?」
「そうだ。そのさんが銃で撃たれて怪我をしているはずなんだが」
「なに!? 怪我人がいたのか」
三人は一斉にあたりを見渡した。だが、彼女の姿はどこにもなかった。
どこかに身を潜めている? いや、それはない。今、この場にいないということは、おそらく彼女はもうこの建物内にはいない。
「あっ、そこに飛び散ってる血」
「ああ。撃たれた時に飛んださんの血だ」
時間が経過し、茶色に変色し始めているが、床にこびれついたそれは紛れもなくから流れた血だ。掠っただけだったから、まだこのあたりに銃弾が転がっているかもしれない。視線を床に這わせていくと、整理券発行機のそばに転がっているのが見えた。コナンも気づき、どこからともなく取り出された白い布をかぶせ、手に取る。遠目からでもわかる茶色くこびりついたものはの血痕だろう。
「目暮警部」
「おお、佐藤くん。そっちはどうだね」
奥から佐藤がこちらに駆けてきた。
「それが、通報したと名乗り出る者が一人もいません」
「いない? どういうことだね」
「それから犯人を撃退したのは安室さんとそのという女性らしいのですが……」
なにやら怪しい空気が漂い始めてきた。
「安室さん。もしかして」
「ああ。通報したのはおそらくさんだ」
拳銃で撃たれて倒れ込んだのはおそらくわざと。その時に何かしらのアクションを起こしていたのだろう。
安室はが激昂した時の様子を思い出してみた。彼女はきっともうここには戻ってこない。それどころか、もう二度とポアロに来ることも安室の前に現れることも……。
「あ、安室くん。どこに行くんだね。君にも事情を」
このまま事情聴取につき合ってもいいと思っていたが、予定変更。安室は現場に背を向け、規制線の外へ向かった。
「すみません。急用を思い出してしまいました。あとで毛利探偵事務所に来てください。そこでちゃんと事情を話しますから」
「なにを勝手な……ああ、たくっ」
目暮のぼやきは当然、安室の耳に届いていない。
人目につきにくい路地に注意を払いながらを探しまわってみるが、なかなか見つからなかった。
は銀行の制服を着ているうえに腕から血を流している。大方、目立たない場所に身を潜めているだろうと思っていたのだが、意外にも川のほとりに出たところでの姿を見つけた。堂々と白昼のもとに身をさらしている。
はジャケットを肩にかけ、携帯で通話している。そばまで行くとちょうど携帯を耳から離したところだった。
「早く怪我の手当てをした方がいいんじゃないですか」
そう声をかけると、は一瞬肩を震えさせてから振り返った。
険しい表情は安室のよく知っている顔。幾度となく現場で見てきたものだ。
どこから調達してきたのか、肩にかけているジャケットはまるでの体躯に合っていなかった。安室はそれを無理やりはぎ取った。右手と口を使って縛り上げたのだろう。左腕には雑にハンカチで応急処置を施したあとがあった。
「やはり、あなたは怪我をすることに慣れている」
「そんなしょっちゅうじゃないわ」
「このジャケットは?」
「適当にロッカーの中から拝借してきた」
奇妙なめぐり合わせだと思った。同じライン上に立っていながらそのライン上にいたのでは決して出会うことができなかった。お互い、脇道に反れたからこそ今がある。
「あなたの素性が気になって、悪いと思いながら調べさせてもらったんだ」
そう告げると、彼女はなんでもないように笑みを深くした。
「それで? あなたの思うところに私の名前はあったの?」
「いや、どこにも。痕跡もなにもなかったよ」
「そう」
「ただ、名前は違うけど、何年か前に警察学校を首席で卒業した女性がいた」
女性が上位に食いこんでくることは珍しい。ましてや、それがトップとなるとなおさらだ。先日、コナンは日比谷公園で彼女を見かけたと言っていた。それらを踏まえて推測すると、おのずとひとつの答えが浮かんでくる。
「それが私だと言いたいのかしら」
「さぁ、それはどうかな。あなたがどういう人物なのかはとても興味があるけど」
聞いたことがある。籍を置かずに潜入捜査を繰り返す仲間がいるということを。そしてそれらの素性は明らかにされていない。つまり組織の中でも秘匿の存在なのだ。
すべてを把握しているのは裏の理事官のみで、安室が彼女の存在を知らなくてもなんらおかしくはなかった。
「安室さん」
は一歩踏み出し、安室の手からジャケットを奪い返した。
「お互い、知る必要のないこともあると思いませんか」
「そうですね」
「だったら、いいじゃないですか」
そう。彼女の言う通りだ。だが、安室の中でそれは駄目だという理由ができてしまった。
「いいえ。よくはありません」
「なぜ?」
「だってあなた、このまま僕の前に二度と現れないつもりでいたでしょう。それだと困るんですよ」
「なにに困るっていうんですか。もともとたいした仲では」
「じゃあ、僕からも質問です」
彼女に惹かれた理由なんてわからない。強いていうならその瞳かもしれないが、それは後づけの理由でしかない。
「好きな女性のことは知りたいと思ってしまうものだと思いませんか」
「……は?」
たっぷり間をおいて、は間抜けな声を上げた。
「おかしいですね。僕の好意はとっくに伝わっているとばかり思っていたんですけど」
己の唇を指差しながらそう言うと、の顔はみるみるうちに赤くなっていった。
「だから消えられたら困るんです。一通り連絡は済んだのでしょう? さぁ、怪我の手当てに行きますよ」
安室はの腕を取って歩き出した。抗議の声を受けつけるつもりはない。
「行くって、どこへ」
「ここからなら僕の家が近いです」
※
爽やかな風が吹き渡る昼下がり。は幾分か気分よく米花町を歩いていた。天候がよいのも気分がよい理由のひとつだが、専らの理由はの腕にかけられている小さな紙袋。この季節限定のコスメを買えたことだった。
諸々の仕事が一段落したら自分へのご褒美になにか買おうというのは、ずいぶん前から決めていた。そしてこの時期、タイミングよく限定品が発売され、迷わず喰らいついた次第だ。
そんな軽い足取りで、喫茶ポアロの扉を開いた。
梓の「いらっしゃいませ~」に出迎えられ、店内を覗き見ると、コナンと蘭がカウンター席に腰かけ、安室と会話しているのが見えた。
「コナンくん。それ以上は詮索してはいけないよ。なんたってさんは怒らせるとこわ……」
その瞬間、の楽しい気分は半分以下まで落ち込んだ。
「誰が怖いって?」
「え? ああ、さん。いらっしゃいませ」
の姿を認めるなり、安室はさらりと笑顔で挨拶をしてきた。今さら笑顔で取り繕ったって遅いだろう。
「わぁ、さんだ」
「蘭ちゃん、だったかしら。こんにちは」
は片手を上げながら蘭にだけ笑顔を向け、蘭の隣の席に腰を下ろした。
「で、コナンくんと安室さんはなにを話していたの? 私が怖いってどういうことかしら」
「その前にご注文をうかがってもよろしいですか」
「……いつものやつ」
「かしこまりました」
「いつものってことは、さん、よくここに来るの?」
「さぁ、どうだろう。まぁまぁかな」
注文を告げると安室はそそくさとカウンターの奥に引っ込んでしまい、コナンもごまかそうと無邪気な笑顔を向けてきた。はぐらかされてしまって気分はすっきりしないが、そこまで問いただしたいわけでもないし、まぁいいか。
ゆっくりと時間が流れていくような感覚。やっぱりこのお店は居心地がよくて好きだ。
「さん、銀行は辞めてしまったんですよね? 今はどうされているんですか」
隣から飛んできた質問に、は視線を蘭のほうに向けた。それが訝しむような眼になってしまったのか、蘭ははっとして申し訳なさそうな顔に変えた。
「あ、すみません。失礼なこと訊いてしまいましたね」
「いいのよ。気にしないで。今はのんびり求職中。あんなことがあったあとだから、少しゆっくりしてから探そうかなと思って」
「この近くでですか」
「そこまではまだ考えていないわ」
「そうなんですか」
あんなこと……。それは先の強盗事件のほかにもうひとつあった。あの支店では不正の口座売買がおこなわれていたのだ。そして一見、なんのつながりもなさそうな製薬会社の薬品盗難事件と半導体工場への不法侵入は、この口座売買と深く関わっていた。いわゆる裏金の流通経路となっていたのだ。本来なら組織の秩序を守るために存在している監査委員や役員までもがグルになっていたというのだから、救いようがない。
三フッ化塩素。彼らが製造しようとした化学物質の名称だ。これを使って国家に不満を持つ連中はテロを企てていたという。まかり間違ってそんなことが本当に起きていたら、今頃、日本の国土は大惨事に見舞われていただろう。
はその裏金の流通経路から足を掴むためにあの支店に勤めていた。そしてその足をほぼ掴み、あとわずかでチェックメイト、というところで、まったく関係のない強盗事件が発生した。だからこそ、はあの時、あんなに激昂していたのだ。
うまく丸め込まれたのか騙されたのか、はたまたそうとは知らずに加担してしまったのかはこの際どうでもいいが、架空の口座をつくらされた平の従業員にとっては迷惑極まりない。取り調べで彼らは口を揃えて上からの指示でそうせざるを得なかったと供述しているらしい。まったくもって不運な話だ。
はふと蘭のほうを見た。どういうわけか、彼女は悲しそうな顔をしている。
「私の職場が気になる?」
「えっ、あ、はい。もし遠くなってしまったら、会うのは今日が最後になってしまうのかなと思ったんです」
「なんだ、そんなことか。安心して。多少遠くなったとしても、このお店にはまた来ると思うから」
「本当ですか!」
「ええ」
蘭はぱっと瞳を輝かせた。彼女の中でなにか引っかかるものがあったのか、どうやらは彼女に好かれているらしい。
このお店の雰囲気は大好きだし、サンドイッチも文句なしにおいしい。また来たいという気持ちに嘘偽りはないのだが、気がかりなことがひとつだけあった。
「ただ、ここはあの銀行から近いから、できることならなるべく近づきたくないっていうのが本音なんだけどねぇ……」
「えっ?」
「ん?」
心の中でつぶやいた言葉はどうやら音になって漏れていたらしい。蘭だけでなく、コナンまでもがのほうを見ながらポカンとしだした。
「じゃあなんでここに来たの?」
そう突っ込んできたのはコナンだった。
「え? あー、えっとね、それは」
「それはね、コナンくん」
コトン、と目の前にハムサンドのお皿が置かれると同時に安室が言葉を被せてきた。
「彼女は僕に会いに来たんだよ。これからも僕に会うためにここへ来るんだ」
「……」
だけでなく、誰もがその場でかたまった。
否定したいが間違いではないだけに反論できない。だが語弊はある。
「……顔に水ぶっかけるわよ」
今なら本気でやれる気がする。グラスに手を添えながら安室を睨みつけると、安室は両手を身体の前に出しながら一歩身を引いた。
「おっと、それは困ります」
「馬鹿なことを言ってないで、仕事したらどうなんですか。洗い物まだ途中でしょう」
「はいはい。すぐにやりますよ」
実は内心どぎまぎしていることを悟られないよう、は安室の動きをジト目で追った。 流水音と食器のぶつかり合う音の中、ひとつ大きくため息をついてからはハムサンドにかぶりついた。腹は立つが、やっぱり安室のハムサンドはおいしい。
ハムサンドのお皿がすっかり空になり、コーヒーも残りわずかとなった頃、は腕時計に視線を落とした。
「このあと、ご予定があるんですか」
その様子を見ていた蘭が訊いてきた。
「ええ、まぁ。でもまだ一時間くらいあるのよねぇ」
ここに入ってから三十分ほどは経過している。混み合っているわけではないがこのまま居続けるのもなんだか気が引けるし、かといって今から外に出ても中途半端でどう時間を潰そうか悩むところだ。
「でしたら、うちの事務所に寄っていきませんか」
「ええっと、今から?」
「はい」
「でも私、依頼することなんてなにもないわよ」
「構いません。というか、私がさんとお話してみたいだけなんです。お茶しましょう」
お茶って、今し方したばかりじゃん。と心の中で突っ込みを入れる。でもその誘いは正直ありがたい。それに今どきの高校生らしからぬ蘭の素直さにも心を許しつつあった。
「そうね。行ってみようかしら」
「本当ですか!」
「ええ。眠りの小五郎さんにも一度お目にかかってみたいし」
「あー、父ですか。あまり期待しないほうがいいです」
「?」
蘭のこの微妙な反応の真相は、すぐのちに知ることになる。
は残りのコーヒーを一気に飲み干すと伝票を片手に席を立った。それを合図に蘭とコナンも立ち上がる。
「さん」
カウンターに背を向けた直後に呼び止めてきたのは安室だった。
「……なんですか」
「またあとで」
この確信犯め。は適当な相づちをうって会計へ向かった。レジには梓が立っている。
腹が立つ。あとで絶対文句言ってやる。
米
「あの、さん」
蘭を先頭に毛利探偵事務所へ続く階段を上っていると、蘭は躊躇うように見下ろしてきた。手はドアノブにかけられたまま止まっている。
「本当によかったんですか。急に来てもらったりして」
「蘭姉ちゃん、今さら?」
「だって、さっきまでは誘うことに必死だったから」
後ろからひょっこり顔を覗かせたコナンに指摘された蘭は、眉根を下げている。
はおかしくなって笑ってしまった。
「本当、今さら」
「さんまで……」
「ごめんごめん。でも安心して。どこかで時間を潰さなきゃと思っていたのは本当だから」
ドアノブが捻られ中に入ると、蘭が期待しないほうがいいと言った小五郎は回転椅子の上でふんぞり返りながら新聞を広げていた。仕事用デスクの上には缶コーヒーにコンビニパンのから袋……いわゆるゴミと書類諸々が乱雑に転がっている。なるほど。蘭が言わんとしていたことがわかった気がする。
「またお父さん、こんなに散らかして」
「うるせー」
「お客さんを連れてきたから、早く片付けてよ」
「客だァ? ……って蘭。そちらの方はどちら様だ!?」
ようやくの存在に気がついた小五郎はは跳ねるように立ち上がり、光のごとくに詰め寄った。その勢いで缶コーヒーがカランと床に転がる。あれもすでにゴミと化していたらしい。
「この毛利名探偵に依頼でしょうか。美しいお嬢さん」
「あ、いえ、私は……」
「お父さん!」
鼓膜が破れそうなほどの罵声が真後ろから飛び、小五郎は飛び退いた。
「この人は依頼人じゃないよ。ポアロの常連さんの」
「と申します」
「欄姉ちゃんがぜひ事務所にっていって連れてきたんだ」
「お仕事中にすみません。お邪魔だったでしょうか」
「とんでもない! あなたような方でしたら、いつでも歓迎ですよ!」
「もう、お父さんったら」
呆れ返る蘭やコナンをよそに、小五郎の鼻の下はのびていた。
「ねぇ、立ち話してないで早く座ったら?」
「はっ、私としたことが。どうぞこちらへ。さん」
「ありがとうございっます」
「蘭。お茶をお出しするんだ」
「……ハイハイ」
ソファに誘導され、は腰を下ろした。正面に小五郎、隣にコナンも腰を落ち着かせる。
「いやぁ、娘にあなたのような知り合いがいたとは、知りませんでしたよ。私もよくポアロには行くんですけどねぇ。一度くらいお会いしてもいいのに」
「常連といっても、まだ数えるほどしか行ったことないんですよ。蘭さんとは以前勤めていた銀行で知り合ったんです」
「お父さん、あまりへんなことは訊かないでよね。せっかく来ていただけたのに、不快な思いをさせるのは嫌だからね」
テーブルの上には紅茶とマドレーヌが並べられた。
「あら、おいしそう」
「最近駅前にできた新しいお店の商品なんです」
「そうなんだ」
「なんだ、コーヒーじゃないのか」
「コーヒーはさっきポアロで飲んできたから。それにマドレーヌはコーヒーより紅茶のほうが合うでしょ」
「へぇ。欄ちゃん、気が利くわね」
さっそく紅茶を一口飲み、マドレーヌにも手を伸ばしてみた。しっとり感がほどよく、味も甘すぎない。女性受けしそうだ。もちろん、例外なくもおいしいと思った。
「改めまして、私は毛利小五郎といいまして、ここで探偵事務所を」
「ええ。もちろん、存じ上げてますよ。有名な方ですから」
少しイメージとは違ったが。
「テレビや新聞でよく拝見してましたが、やはり実物のほうがずっと男前ですね」
だが、これはこれで愉快で好きだと思った。
「いやぁ~、あなたのような美人にそう言われると照れますなぁ」
「あら、そんなにおだてたってなにも出ませんよ」
和気あいあいと会話を弾ませているうちに、時間はどんどん過ぎていく。一時間などあっという間だった。
「ところでさん。先ほど、以前は銀行に勤めているとおっしゃってましたね。今は?」
「あー……」
は手に持っていたカップをソーサーの上に戻して言葉を詰まらせた。
「今は恥ずかしながら辞めてしまいまして。無職なんです」
「新しいお仕事を探している最中なんだって」
「ほう。そうしましたら、この毛利小五郎の助手なんていうのはいかがですか」
「ちょっとお父さん。そんなこと言ったら、さんが困っちゃ……」
蘭は不自然なところで言葉を切ってかたまってしまった。
「どうした? 蘭」
小五郎もコナンもわけがわからないようだったが、にはすぐわかった。
「いいわよ。で」
「す、すみません。お父さんがなれなれしく呼んでいるのを聞いていたらつい」
「なれなれしいって……。まぁいい。で、どうですか。助手のほうは。さん」
「あら、助手には安室さんがいるのではないですか。毛利さんほどの方が助手二人もいりますか?」
「安室? いいのいいの。あんな男よりあなたのほうがずっと……」
「それはいくら毛利先生でも駄目ですよ」
突然の来訪者にを除いた三人が驚いた。いつの間にか安室がドアのそばに立っていた。手にはトレイを持ってる。
「なんであんたがここにいるの?」
「バイトが終わったからですよ。厨房借りて差し入れをつくってきました。召し上がってください」
トレイからテーブルの上に移されたお皿ののはサンドイッチが載っていた。
「安室さん、お疲れさま」
「うん。ありがとう。コナンくん」
「ちょっと待っていてください。今、お茶淹れてきますから」
「構わないください。すぐに出ますから」
それぞれの会話をよそには優雅にカップを傾けていた。それから安室が持ってきたサンドイッチに手を伸ばす。しかし、
「あ、さんの分はありませんよ」
「は?」
伸ばしかけていた手を止めてお皿の上を見てみる。載っているサンドイッチは六個。今、この場にいる人間は小五郎、蘭、コナン、、安室。……数がおかしい。
「なんでないの?」
「すぐに出るからですよ。さっきそう言ったでしょう。ほら、グズグズしない」
安室に腕を掴まれ、無理やり立たせられた。
「ま、待ってよ、もう少しゆっくりしてからでもいいじゃない。もっと皆さんと話した……」
「また来ればいいでしょう」
「だから、このへんにはなるべく近づきなくないって」
「ほう。それならもうポアロにも来ないと?」
「それは」
なかば引きずられるようにドアのそばまで連れてこられる。もはや三人がポカンと見上げてきていることに気がつく余裕もなかった。
「申し訳ありませんが、トレイとお皿はマスターか梓さんに渡しておいてください」
「ねぇ、嘘でしょ!? 本気?」
「あなたも往生際が悪いですね。ほらっ」
「あっ……もう! 慌ただしくてすみません、毛利さん。それから蘭ちゃんとコナンくんも。また必ず来るから……!」
腕を引かれながら後ろ向きで早口に伝えると、ドアの閉まる無機質な音だけが虚しく響いた。
往生際もへったくりもあるものか。階段を下りるなり、は掴まれていた腕を思いっきり振り払ってやった。
「怒っています?」
「……別に」
当たり前のことを訊かれて余計に腹が立つ。だが、それ以上には悔しくてたまらなかった。
そこらへんの男どもには負けないくらいに日々それなりに鍛えてきたはずなのに、安室の力には到底敵わなかった。そしてその力の差に思わず胸が高鳴ってしまったのだ。
彼がにこやかな笑みを浮かべているのもまた腹立たしい。
「わっ、ちょっと、なにするの!」
そっぽ向いて先に歩こうとした瞬間、急に腰に手を回されて引き寄せられた。
「強引すぎたところは反省しているよ。ただ、あなたと過ごす時間が限られていると思うとついね」
は近距離でじっと安室の瞳を見上げた。
「もう次は決まっているんだろう?」
「……ええ」
今日一日は本当に束の間の休息だったのだ。明日にはもう次の仕事が待っている。残念ながら今夜は安室と過ごすことはできない。それを残念に思う気持ちをも持っていた。
安室は詳しく訊いてこない。も詳しく話すつもりはない。だが、これだけは伝えておこうと思った。
「杯戸町よ」
「えっ」
「だから、あの家にはもうしばらくいるわ」
安室の瞳が次第にやわらかくなっていく様を見て、は思わず目を反らしてしまった。
今、この瞬間、彼は私が好きなのだと猛烈に実感してしまったのだ。
「そうか」
その心情が声にまで滲み出ていて、は静かにため息を零した。まさか、この男のことをこんなに好きだと思う日が来るとは夢にも思わなかったと。
※
パタン、と閉じられたドアを三人は無意味に見つめていた。
「なんだァ? あいつら、付き合ってんのか……?」
そうぼやいたのは小五郎だった。
コナンは思い立ったようにソファを下り、窓際へ駆け寄った。下を見るとちょうど安室とが事務所の前を通り過ぎていくところだった。
薄々そうかもしれないと思っていたことが、今、確信に変わった。
「案外、そうかもしれないよ」
「えっ?」
「ハァ!?」
「見てみなよ。ほら」
蘭と小五郎も窓際に寄り、下を覗いた。
「わぁ、ほんとだ」
「ウソだろ……」
目を輝かせる蘭とは対照的に小五郎はうな垂れている。三人の眼下には安室がの腰に手を回し、二人で寄り添うように歩いていく姿があった。
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2018.12.24