僕は、私は、あなたの名前を知らない。でも、

06


 暮れなずむ空の下、は日比谷公園内のベンチに腰を下ろしていた。ジョギングする年配者、ベビーカーを押している母親、サッカーボールを抱えて走り回る小学生たち。国のお膝元であっても、ここは区民にとっては憩いの場となっているようだった。
 また幼い子どもの手を引いた母親が目の前を通り過ぎていく。とそう変わらない年齢に見えた。
「事態は思ったよりも早く悪い方向へ進んでいるわ。あなたの耳にもとっくに入っているのでしょう。半導体工場のニュース」
「はい」
 は遠くを見つめたまま、つぶやくように小さな声で話した。隣には三十歳前後と思われる男性が一人。ただし、お互い座っているのはベンチの端と端で男性も携帯を片手に検索画面を開いていた。
 今朝一番に飛び込んできたニュース。昨夜遅くに三重県にある半導体工場に何者のかが侵入し、中央管理センターからデータを持ち去られた疑いがあるとのこと。
「そちらの状況はどうなんですか」
「足は掴んだわ。時間が惜しい。すぐにでも動けるよう手はずを整えるからそのように」
「了解」
 会話のようなものを終えると、男性は立ち上がり、大きく伸びをひとつしてから何事もなかったかのように去っていった。
 はしばらくそのまま人間観察を続けた。やがて、バッグから小さな水筒を取り出し、その中身を口に含んだ。昨日、新しく仕入れてきた紅茶だ。
 ごくりと飲み込んだところで空を見上げる。何度か深い呼吸を繰り返し、それから気合いを入れるように立ち上がった。やらなければならないことは山積みだ。


 園内の小道を新橋方面へ向かって歩く。闇を迎える準備を整えたここは、生い茂る木々も相まってかなり視界が悪い。だからか声をかけられるまでその存在を認知できなかった。
「お姉さん」
 はたと足を止め、前を見て後ろを向いて、もう一度前を向いて首を傾げてから視線を下げた。
「あら、あなたは」
 毛利探偵事務所に身を置いているという江戸川コナンくんがそこにいた。
「どうしたの。一人?」
 はコナンと同じ目線になるように腰を折った。こんな時間にこんな場所を小学生が一人で歩いているなんて珍しい。というか、普通におかしい。
 コナンの腕にはスケートボードが抱えられている。それに乗ってここまで来たのだろうか。
「うん。そこで高木刑事と会っていたんだ」
「刑事? コナンくん、警察と知り合いなの?」
「うん。他にもいっぱいいるよ。警察の知り合い」
「へぇ」
 ますます変な小学生に思った。どこの世界に警察の知り合いをたくさん持つ小学生がいるのかと。
「ところで何してたの? さっきまで誰かと一緒だったみたいだけど」
「そうだったかしら」
「あそこのベンチで怖い顔しながら話していたでしょ」
「怖い顔って……」
 コナンはかわいい顔してなかなか失礼なことを言い放った。
「あの隣に座っていた人のことかしら。あれは知らない人よ。このへんの省庁で働いているんですって。息抜きで散歩をしてただけみたい」
「ふうん」
 コナンの口もとは笑っているが、目は笑っていない。こういう探るようなまなざしに晒されること自体には慣れているが、相手が小学生となると正直、どう対処したらいいのかわからなかった。
「ゼロの兄ちゃんも、よくこのあたりで見かけるんだ」
「……ゼロ?」
「安室さんのことだよ。安室さんの名前、透っていうでしょ。透は透けて何もない。だからゼロ。子どもの頃、そう呼ばれていたんだって」
「へぇ、そうなんだ」
 コナンの口ぶりは安室のことをかなり詳しく知っているように聞こえた。そして確信する。私のこともかなり疑っている、と。
 やっぱりコナンは普通の子どもではなさそうだ。
 は視線を元の高さに戻し、ふっと、表情を緩めた。
「子どもはいい加減、帰る時間よ。私もこのあと友達とディナーの約束をしているから、もう行かなくちゃ」
「そうだったんだ。足止めしちゃってごめんなさい」
「いいのよ。それより、気をつけて帰りなさい」
「はーい」
 そう素直に返事をして駆けていくコナンの後ろ姿を見送った。ふと見上げれば、あたりに建ち並ぶ省庁の航空障害灯が点滅している。夜の帳はすっかり下りてしまったようだ。





 屋内に閉じこもって仕事をしているのが切なくなるほど、その日は快晴に恵まれていた。普段は窓口業務だというのに、この日に限って言い渡された業務は整理券の発行機に貼りつき、来店した客への総合案内。始業のミーティングでそう告げられた時は、本気で支店長の顔を殴ってやろうかと思ったほどだ。
 業務の好き嫌いは人にもよるのだろうが、なんだかんだでずっと座っていられる窓口業務のほうがは好きだった。


 何が楽しくて外がよく見える場所に立っていなければならないのか。青く澄み渡る空が恨めしい。だが、それもあと三十分ほどの辛抱だ。あと三十分で窓口業務は終了する。もっとも、これからが駆け込みの客が殺到する嫌な時間なのだが。
 そう思った矢先、また自動ドアが開いて新たな客の来店を告げた。
「いらっしゃいま……」
 営業スマイルを貼りつけて挨拶しようとしたが、途中で止まってしまった。
「やぁ、こんにちは」
「安室さん」
 目を見張るとは裏腹に安室には驚いた様子がなく。がここにいることを先刻承知でやってきたらしい。なぜここに? と訊くのは愚問のように思われた。がこの支店で働いていることをコナンや蘭は知っている。
 ひとまず、整理券を発行するために来店の目的を訊く。
「ご用件は?」
「お構いなく。お金を下ろしに来ただけですから」
「そうですか」
 安室は奥に設置されているATM機を親指で差しながら進んでいく。はなんとなく遠ざかっていく安室の背中を目で追いかけた。
 また後ろで自動ドアが開く音がする。やはりこの時間帯は忙しない。
「いらっしゃいま……」
 そこまで言って、また言葉を切ってしまった。目の前に信じられない光景が広がったからだ。
「動くなっ」
 拳銃を構え、目出し帽を被った男が数人。全身黒で統一されたファッションは、いかにも俺たちは強盗だといっているようなものだった。
 一瞬にして店内は凍りつき、あちこちから悲鳴が上がる。
「騒ぐなよ」
 押しかけてきた男は五人。そのうちの一人は店内をぐるりと見渡し、その視線をに定めた。
「お前、金庫まで案内しろ」
 手には麻袋を下げている。どこまでも典型的な強盗だ。
 は無言で反転した。奥へ歩みを進めようとすると、背中になにかを突きつけられる感触がした。見なくてもわかる。拳銃だ。
「手を上げながら行け。妙な真似はするなよ」
 ここは一芝居うって、怖がるふりをしたほうがいいのだろうか。いや、おそらくそうしたところで結果は変わらない。
 は素直に手を上げ、肩をすくめたくなる気持ちを抑えながら一歩踏み出した。その瞬間、奥にいる安室と目が合った。


「これに金を詰めろ」
 金庫の前までくると、放るように麻袋を渡された。はそれに札束を放り込んでいく。
「ものわかりのいい奴だ」
 よすぎることに疑いを持てよ。客観的に見ている者がいれば、誰もがそう思うだろう。
 一気に重量の増した袋を抱えて表に戻ると、犯人たちの配置が整えられていた。出入口に一人、カウンターの中に二人、ATM付近に一人。配置は悪くない。
 ある意味、今日、が窓口業務にあたっていなかったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。そうでなければ、今頃、怯えている従業員の一人がの役を担うことになっていただろう。そしてもうひとつの幸い。今、ここには安室がいる。
 は視線だけであたりを見渡した。まず第一に考えなければならないのは客の安全。カウンター内には押すだけで通報できるボタンが設置されているが、見張りが二人もついている中で近づくのは難しいだろう。
 それでも一番近くにいた男性が近づこうとした。しかし、やはり犯人の目にとまってしまい、銃声が鳴り響いた。壁にめり込む銃弾と上がる硝煙。そして悲鳴。
「次、動いた奴には容赦なく撃つ」
 脅しではないのだろう。おそらくこのメンバーの中でカウンター内に配置された二人は、頭がよく的確な判断力と行動力を持っている。
 だが、判断力と行動力はこちらも負けてるつもりはない。


 怯えた客は壁際で固まっている。近くにいる人間は皆、しゃがみこんでいる。左は出入口で犯人が一人。右にはに金庫まで連れていけと言った奴が一人。今、もっとも注意を払うべきはこの二人だろう。
 は一度瞳を閉じて細く長い息を吐き出した。それから瞳を開き、麻袋を振り上げた。まずは一人。右にいる男をはり倒す。
 止まる間もなく次の手に出る。は出入口に向かって突進した。出入口の犯人はに拳銃を向け、あっさりと発砲してきた。
 瞬間、あたりに鮮血が飛び散る。銃弾がの左腕を掠めたのだ。は「うっ」と声を上げ、その場に倒れ込んだ。
 まったく、どいつもこいつも簡単に発砲してくれるものだ。が倒れ込む寸前、誰からも気づかれないようににやりと笑った。
「馬鹿な女だ。動けば撃つと言っただろう」
 初めて見る赤い血に、客も従業員もより一層、震え上がった。奇妙な静けさが広がり始めるが、それはに倒された男のうめき声で破られた。
「ってーな、ちくちょう……。このアマっ」
 のそのそと起き上がった男の怒りの矛先はに向き、下劣な視線を落としてきた。そして蹴りを一発、の脇腹に打ちこむ。
 はくぐもった声を上げ、仰向けに転がった。だが次の瞬間、男の方が仰向けに倒れていた。一瞬、なにが起きたのかよくわからない。それほどには動きは早く、起き上がりぎわに男にタックルをかましていた。
「アマとは誰のことかしら、ねっ」
 今度はのほうがお返しとばかりに男のみぞおちめがけてかかとを落とす。「ぐふっ」とおおよそ人間の出す声とは思えないようなうめき声を上げて男は気を失った。


 それからの展開は早かった。はすぐさま身を翻し、出入り口へ向かった。先ほど発砲した男は慌てて再度発砲しようとするが、の手が拳銃を叩き落とすほうが先だった。
「なめんなよっ」
 そして渾身のまわし蹴りを一発。弧を描くように飛んだ男はそのまま完全に伸びた。
 が反撃したのと同時に安室も動き出していた。まずはの行動に気を取られていた近くの男をはり倒し、その勢いのままカウンターを飛び越え、一人、二人と中にいた男どもを倒していった。
 ほんの十数秒ほどのできごとだった。


「さて」
 は床に転がっている拳銃を拾い上げた。
「一人だけ逃げようなんて、考えちゃだめよ」
 そのの一言で、わずかに安堵の色が広がり始めていた店内に、再び緊張の糸が張る。カツカツとヒールの音を響かせながら、一人の客に近づいていく。その男の額には脂汗が滲んでいた。
「リーダーさん」
「な、なんのことだかさっぱり」
「あら、とぼけるおつもり? これだけ怯える客の中で冷静すぎたあなたは、どこからどうみても犯行グループの一人にしか見えなかったんだけど。それに、実行犯の奴らがあなたにだけ注意を払っていなかった。言い訳があるなら聞かないこともないけど」
 は男のジャケットの内側に手を突っ込んだ。中から出てきたのは小口径の拳銃一丁。
「これじゃあ、弁解のしようがないわね」
「……くっ」
 男は悔しそうに顔を歪めた。その瞬間、の怒りボルテージが急上昇。目にも留まらぬ速さで男の胸倉を掴み、罵声を放った。
「くっ、じゃないわよっ! よくも強盗になんて入ってくれたわね。よりにもよってこの支店に! 入るなら他の支店にしなさいよ。もぉ~~~~~ッ」
 まわりからしてみたら、がなぜここまで激昂しているのかわけがわからないだろう。自身も、怒りにまみれすぎてまわりがよく見えなくなっていた。
「段取りがめちゃくちゃじゃない! どうしてくれるのよ、えェッ!?」
 散々怒鳴り散らすと、はゴミでも扱うかのようにその男を床に放り投げた。の気迫に負けた男はその場にへたりこみ放心。これ以上、抗う気はないらしい。
 次にはの視線は他の男に向けられていた。壁際で顔を真っ青にしているここの支店長だ。ターゲット変更。ロックオン。と言わんばかりにズカズカと大股では支店長に近づいていく。
「あなたもよ」
 支店長の胸倉も掴み、勢いよく引く。いったいその細い身体のどこにそんな力があるのかというくらいに強く引かれた支店長は前のめりに倒れそうになるが、それすらもの力によって支えられた。
「逃げられないのは、あなたも同じよ」
「な、なにを言っているんだ。さん」
 どうやら支店長が顔を青くしているのは、強盗に入られたからだけではないらしい。
「あなた、自分がなにに加担しているのかちゃんとわかって加担していたの?」
「だからなにを」
 支店長は息を呑み、閉口する。の視線は相手をすくみ上らせるのには十分すぎる威力があった。
 いつまでたっても口を開こうとしない様子にしびれをきらし、は支店長も乱暴に床に投げた。
「まぁいいわ。わかっているのならクソ野郎だし、わかっていなかったのなら大馬鹿野郎。どのみち、情状酌量の余地なんてないんだから」
 どこからともなくサイレンの音が聞こえてきた。いつの間にか誰かが警察を呼んでいたらしい。


―――――――――――――――
2018.11.22