僕は、私は、あなたの名前を知らない。でも、

05


 夢うつつとは、こういう感覚のことをいうのだろう。今までに経験したことのない感覚なだけに正直なところよくわからないのだが、どうにも今日一日落ち着かなくてずっと奇妙な感覚に陥っていた。
 業務中も咎められるようなミスはしていないが、何度か「さん」と呼ばれて反応が遅くなってしまった。


「気に入っていただけましたか?」
「ええ。とても」
 木曜日の夜。約束通りは安室と向かい合い、掘りごたつの席で食事をとっていた。
 海鮮をメインにした日本料理店の個室。設えも純日本風に凝っており、どんぴしゃの好みだった。もちろん料理の味も申し分ない。特にこの伊勢海老のお刺身は口に入れた瞬間に新鮮な味が広がり、思わず膝を叩いてしまいたくなるほどだ。
「こういうお店、どこから見つけてくるんですか?」
 口コミサイトだけでは見つけられないだろう。というのがの見解だった。そして彼には申し訳ないが、安室は決して交友関係が広そうには見えない。
「どこだと思います?」
「逆に訊き返してくるなんて、ずるいですね」
 は挑戦的な安室をじっと見ながら、彼の日常について思考をめぐらせてみることにした。
 まぁいいでしょう。少しは考えてみましょうか。
 安室透。喫茶店でアルバイトをしている。人当たりがよく評判も上々だが、お腹は真っ黒に違いない。本職は探偵業。……ああ、そうか。案外、答えは単純なところに転がっているのかもしれない。
「もしかして探偵業で?」
「正解です。お礼にと依頼人から招待してもらえることがたまにあるんですよ」
「なるほどねぇ」
 逆もしかり。場合によっては安室が接待をすることもあるのかもしれないとふと思った。
 彼は日頃、どうやって依頼人を獲得しているのだろう。毛利小五郎ほど有名になれば黙っていても仕事が舞いこんでくるのだろうが。そもそも彼の本職が探偵というのも甚だ怪しいわけで……。
 そこまで考えて強制的に思考を止めた。
 詮索めいたことはやめよう。今はせっかくおいしいものを目の前にしているのだから。
 は海老の天ぷらに箸を伸ばした。うん、おいしい。とてもぷりぷりしている。
さんは普段、何をされているんですか?」
「え?」
 デザートのきなこわらび餅に手をかけ始めた折、安室が訊いてきた。ふいに食べる手が止まる。
「おっと、訊き方が悪かったですね。オフの日などです。最近は忙しそうでそんな暇はなさそうですけど」
 まるで初めてのデートでする初々しいカップルの会話みたいだ。そこまで考えて思った。そもそもこれは始めてのデートだと。……カップルではないけれど。
「そうですね」
 視線を斜め上に上げ、はどう答えようか思案した。
「ウィンドウショッピングをしてることが多いかな。気ままにお店を見て歩き回るの、けっこう好きなんです」
「へぇ。意外と女の子らしい趣味持っているんですね」
「ちょっと、それ失礼じゃありません? 私だって腐っても中身は女ですよ」
「すみません。第一印象があれだったもので」
 この前も普通の女性とか、偏見のある言い方をしていたよな。この男。それにしても、まだひったくり騒動のことを引っ張るのか。
 は安室をひと睨みしてから、言葉を継ぎ足した。
「でも、一番の趣味はカフェめぐりです。最近はめっきりですけど」
「それもまた女の子らしい。いいですね。今度一緒にしましょうか。カフェめぐり」
 それについては明確な答えを出さず、は曖昧に微笑んで見せた。


 女の子らしいといえば、今この瞬間もそうだろう。は自分の服装を見下ろしてみた。
 いつもの通勤スタイル。本当は一旦家に帰って着替えてきたかったと思う時点で、日頃の自分とはかけ離れていた。
 それならば最初からデート用の服を着てくればよかったのだ。どうせ行員は出勤するなり制服に着替えてしまうのだから、通勤時に何を着ていたってさほど問題にはならない。それなのにそうしなかったのは、同僚の目を気にしたからだ。いつもと違う自分に「どうしたの?」と訊かれるのが嫌だった。今日の待ち合わせ場所を職場から離れた駅にしたのも、やはり同僚の目を逃れるため。こんな女々しい自分がいたことに驚いているのは、他ならぬ自身だった。
 改めて安室の顔を見つめてみた。その化けの皮を剥がしてみたくなるほどに美しい。
「僕の顔、何かついてます?」
「いいえ。憎いくらい整った顔をしていると思っただけです」
「それをいうならさんだって。超絶美人ですよ」
「何それ。なんか嘘くさい」
 知らず知らず口許が緩む。良い意味で、今は緊張の糸が切れていると思った。いくら自分で大丈夫だと思っていても、身体や心は正直に疲弊していくものなのだと痛感する。
「うん。やっぱりそうやって笑っている方がずっと素敵だ」
 だから、こうして素直に笑えていることが、日頃の気の張り方から解放されている証拠なのだと自分でもわかっていた。わかっていたのだが、まさか彼からこんなふう言われるとは思わなかった。
「それがあなたの本当の顔ですか」
「は?」
 は反射的に身を引こうと、勢いよく立ち上がろうとした。しかし、ここは掘りごたつの席。
「あ、いった……」
 普通に立ち上がることはできず、下腹部のあたりを盛大にテーブルにぶつけてしまった。結局、座ったままの態勢に落ち着く。
「大丈夫ですか」
「なわけないでしょう。安室さんがへんなことをおっしゃるから」
 取り乱した恥ずかしさをごまかすようには居住まいを正し、あからさまなため息をひとつ零した。
「いつでもどこでも笑顔をふりまいているわけではありませんから」
「含みのある言い方をしますね」
 は安室を睨みつけた。
「私はあなたとの食事を素直に楽しんでいたから素直に笑っていたんです。誘った相手が喜んでいるんだから、あなたも素直に喜んでください」
 一息に言い切ると、安室は虚を突かれたような顔になり、それから柔和な笑みに変えた。
「そうですね。そうしないとバチが当たってしまいそうだ」





「すっかりごちそうになってしまって、すみません」
「とんでもない。誘ったのは僕のほうですから、僕が支払うのは道理でしょう」
「……ありがとうございます」
 勘定は安室が全額持つことになった。も折半とまではいかなくても多少なりとも払うつもりで財布を取り出したのだが、「結構です」の一点張りで最後まで受け取ってもらえなかった。
 それなら、次は私が全額持ちます、と口を開きかけてやめた。
 今宵はうたかたなのだ。そう思わないと自分の足元が崩れてしまいそうだった。


 外へ出ると、思っていたよりも冷たい風が頬を撫ぜた。平日の夜らしく、仕事帰りと思われる人の往来が多い。なかにはまだ木曜日だというのにべろんべろんに酔っぱらっているサラリーマンもいて、たいへん勇気あるオジサマたちだなと思わず関心してしまった。十中八九、彼らは明日、二日酔いの頭を抱えての出勤になるだろう。
 束の間の休息は何だかんだで楽しかった、このまま安室の運転する車に揺られ、適当な場所で降ろしてもらって帰宅する。それも悪くない。悪くないのだが、今宵をうたかたと割り切るのなら、もう少しこの束の間の時間を味わっていたい。そんな欲が生まれてしまった。
「少し、歩きませんか?」
 気がついたら、そんなことを口走っていた。安室も驚いた顔をしている。
「まさか、あなたからそんなふうに誘ってもらえるとは思いませんでしたよ」
 ええ、まったく。どういう心境の変化かと、自分でも驚くばかりである。
「いいですよ。夜風に当たっていきましょうか。風邪を引かない程度に」
 喧騒の中、二人は幹線道路沿いの歩道を歩き出した。横を走る車のヘッドライトは絶え間なく続いている。
 目的なんてない。話したいことがあるわけでもないし、訊きたいことは……山ほどあるが、今は訊きたくない。それでもこれはまだ束の間の時間なのだと確信できるほど、心は穏やかだった。


 このまま平穏な時間が流れて終わっていくかのように思った。適当なところで折り返して安室の車を停めてある駐車場へ向かう。確かめるまでもなく、当たり前のようにそうするつもりだったのだが、異変は突如として顔を覗かせた。
 パリン、とガラスの割れるけたたましい音が耳をつんざいた。とっさにあたりを見渡すが、異常は見受けられない。まさか、と思い、頭上を確かめようとした瞬間、腕を強く引かれた。
「危ないっ」
 安室に覆いかぶさるように抱きしめられていた。そして降り注いでくるガラスの破片たち。
 一瞬のことだった。自分の置かれている状況を認識すると同時に、安室の「うっ」という声が耳を掠め、滴る鮮血が目に飛び込んできた。
「ちょっとやだ。安室さん。何やってるの!?」
 いうまでもなく、鮮血を流しているのは安室。他にも数名、怪我をした通行人がいるようだったが、もっともガラスが降ってきたのはたちのいるあたりで、大きな被害はないようだった。
 どうやらすぐそばの建物の窓が割れたらしい。四階あたりだろうか。もっと上階だったらガラスの飛散する範囲はさらに広範囲に及んでいただろう。そう考えれば、自分たちのところだけに被害が集中したのは不幸中の幸いだったかもしれない。
「怪我はありませんか」
「当たり前でしょっ」
 あなたが庇ってくれたのだから、という言葉は呑み込み、は安室の頭を両手で抱えて見回した。
「よかった。頭部に怪我はないみたい」
 それでも衣服から滲み出てくる血は痛々しい。は携帯を取り出した。だが、その手は安室に制される。
「救急車は呼ばないでください」
「なにを言ってるの。怪我の手当ては必要よ」
 ここから歩いてすぐに行ける病院はない。
「これくらい大丈夫です。怪我には慣れてますから。とにかく僕の車へ」
「馬鹿を言わないでください。その怪我で」
「いいから早く」
「……」
 はしばし黙考してから携帯をバッグに仕舞い、かわりにハンカチを取り出した。もっとも傷が深いのは左の肩。安室はそこを右手で押さえているが、まるで止血にはなっていない。はその手を払いのけ、ハンカチできつく患部を縛り上げた。
さん?」
 が救急車を呼ばずとも、どうせすぐくる。遠巻きに眺めている誰かがすでに連絡を入れているだろう。現に遠くからサイレンの音が聞こえてきている。だが、安室がおとなしく救急車に乗り込むとも思えないし、あまつさえ、ここから遠ざかろうというきらいさえ窺える。
 迷ってる暇はなかった。
「こっちです」
 安室の腕を取って大股で歩き出す。明らかに駐車場とは逆の方向へ。
「こっちって、どこへ?」
「私の家です。ここからなら五分もかかりません」
「いや、しかし」
 この期に及んで渋る安室に苛立ちが頂点に達し、の足はぴたっと止めた。そして振り返る。
「病院へ行くのが嫌なんでしょう? だったらいいじゃないですか。これ以上渋るようなら怒ります」
 安室を睨みつけながら言い放ち、再び歩き出した。すでに怒っていることは自覚済みだ。それでも怒らずにはいられないほど、は悔しかった。


 五分といわず、三分ほどでの自宅マンションに着いた。エントランスを抜ける前に、は安室の全身をざっと見渡した。足取りはしっかりしているものの、患部に当てているハンカチからは血が滲み、他にも小さな切り傷が点在している。
「これ、肩からかけてください」
 自分が羽織っていたジャケットを脱いで安室に渡した。それから、なぜ? という顔をしている安室に言う。
「その血だらけの姿で防犯カメラに映られたら困ります」
「たしかにそうですね」
 共用玄関で暗証番号を入力して中に入り、エレベーターで三階まで上がる。三〇二と記された部屋の前でシリンダー錠をまわし、さらに暗証番号を打ち込むと、ようやくドアが開いた。
「厳重なセキュリティですね」
「シリンダー錠はあとから自分でつけたものです。一応、女の一人暮らしですから、用心するにこしたことはないでしょう」
 2DKという間取りだが、ひと部屋はDKとつながっているため、1LDKに近いつくりになっている。そのリビングにあたる部屋に安室を通し、適当に座らせた。
「患部を出して待っていてください。上は脱いじゃった方がいいかもしれませんね」
 言葉とは裏腹に強制的な命令を下し、は脱衣所へ向かった。洗面器に水を張り、棚から新しい手ぬぐいやガーゼを取り出す。それらと一緒に救急箱を抱えてリビングに戻ると、安室はおとなしく上を脱いで待っていた。
 は静かに手当てを始めた。


 出血が多く、いたるところに血がこすれているために痛々しく見えるが、傷は思ったよりも深くない。
 濡らした手ぬぐいでふき取り、洗面器に浸すとまたたく間に水は茶色へと染まった。何度見ても嫌な色だと思う。
「ありがとうございます」
「えっ?」
 処置はほとんど終わり、最後の仕上げの包帯を巻きながら、はぼそりと呟いた。ぶっきらぼうな声になってしまったのは、未だ複雑な心境を整理しきれていないからだ。
「守ってもらったことについては、まだお礼を言っていなかったので」
 守ってなどもらわなくても、自分の身くらい自分で守れる。本当はそう言いたかった。だが、あの状況下では、安室に庇ってもらわなければ怪我することを免れなかっただろう。
「でも、まだ怒っていらっしゃるようですね」
「ええ。私がいたばかりに、あなたに怪我を負わせてしまいましたから」
 あの時ああしていれば、という後悔はいつだってたくさん抱えている。少し歩きませんか。欲望に任せて口にした結果がこれだ。
「タイミングの問題ですよ。さんが気にすることではない」
「たしかにそうですけど、私なんかを守るために怪我をしないでください」
「そう言われましてもねぇ、とっさに身体が動いたことですから、止めようがありません。それに」
 安室は意味ありげに言葉を切り、じっと見つめてきた。甘い、とはまるで正反対の探るような視線。
「どうやらさんは怪我の手当てに慣れているようですから、安心して怪我できます」
「馬鹿なこと言ってないでください。手当てに慣れているのは、私のまわりに無茶する人が多いからです」
 今し方、安室透という男が新たに加わったと言外に伝えたつもりだった。
 安室の目つきはまだ変わっていない。
「嘘ですね」
 いつもの安室らしからぬ鋭い一言。スッと伸ばされた手はの襟元にたどり着き、肩口の部分を軽くめくった。そこには治りかけの切り傷ひとつ。安室の親指がその上を這っていく。
「あなた自身、怪我をすることに慣れている。違いますか」
 お互い、見つめ合うこと数秒。はゆっくりとした動作で安室の手を払いのけた。
「普通に生活しているだけでも、怪我のひとつやふたつくらいするものでしょう」
 だが、の怪我は普通に生活しているだけでは普通はつかないような傷だった。
 は手早く救急セットをまとめて立ち上がった。
「お茶を淹れます。安室さんも手伝ってください」


 脱衣所の棚に救急セットを戻してからキッチンに入ると、服を着直した安室もちょうど出てきたところだった。
 やかんに水を注ぎ、コンロの上に置いて火をかける。
「何がいいですか? コーヒー、紅茶、日本茶。他にもいろいろ各種取り揃えてありますよ」
「そうですね。そしたら、日本茶がいいかな」
「そこの棚の、左からふたつ目の引き出しを開けてください」
 視線だけで安室の背中にある棚を指し示す。
「へぇ。日本茶だけでもこんなに」
 そこには、番茶、煎茶、玄米茶などなど、数種類のお茶っ葉が入っていた。
「飲み物を集めるのが趣味みたいなものなんです。好きなの選んでいいですよ」
 食器棚から急須と湯呑を取り出すと、ちょうどお湯が沸いた。安室がお茶を選んでいる間に茶器にお湯を注いで温める。
さんもそうやってお茶を淹れるんですね」
「も、ってことは、安室さんも?」
「ええ」
 安室が選んだのは番茶だった。はそれを受け取り、お湯を抜いた急須にお茶っ葉を入れ、新しいお湯を注ぐ。充分蒸らしてから二人分の湯飲みに淹れ、安室に渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「それを飲んだら帰ってください」
 二人とも立ったまま、静かに飲み始めた。
 はこの数時間のできごとを思い返してみた。ほんの少し前に安室と向かい合って食事をしていたことが信じられないほどに遠く感じる。それだけ濃密な数時間を過ごしていたのだろう。
「ごちそうさまです」
 無言で傾けていた湯呑はあっという間に飲み終わってしまった。空になった湯呑を受け取り、適当にシンクに置く。帰り支度を始めた安室にくっついても玄関に向かった。
「外には出なくていいですよ」
「そうですか」
「ええ。道はわかりますから」
 電気を点け、靴を履く安室の後ろ姿をぼんやり眺める。つま先をトントンとたたきに打ちつけ、履き終えた安室は振り返った。
「こんなかたちであなたの家を知ることになってしまって、すみません。できることならちゃんと招待されて知りたかった」
「ああ。まぁ、不可抗力ですから」
 本音をいえば、彼のいう通り、知られたくはなかった。それでもあの状況下では最善の選択をしたと思っている。もっとも、安室が病院へ行くことを拒まなければこうはならなかったのだが。
「では、これも不可抗力だと受け止めてください」
 何を? と訊くよりも先に腰に手をまわされ、身体を引き寄せられた。そして重なる唇。声を上げるタイミングも抵抗する隙もなかった。
 かたちを確かめるような触れ合うだけのキスを数秒。
 驚いて目を見開いていると、薄ら開いた安室の瞳とかち合い、熱が全身を駆け抜けた。
「また、ポアロでお待ちしています。あ、施錠はしっかりしてくださいね。では」
 キスを終え、なにも言えずにいるをよそに安室は爽やかに去っていった。パタンと閉じられた無機質な玄関ドアを見つめながら、は壁にもたれてズルズルとその場でへたりこんだ。
 なに、今の。
 やり逃げなんてずるい。この火照った身体をどうしてくれようか。己の心拍音がうるさくてたまらない。このまま流されてしまいたい衝動に駆られる。
 それでも何度も強く自分に言い聞かせた。今宵はうたかたなのだと。


 それから間もなくして気づいた。安室はあの血だらけの服を着て帰ったことに。入る時にジャケットを羽織らせた意味がまるでないではないか。


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2018.11.13