土曜日の銀行というものは、どこへ行っても例外なく殺人的に混んでいるものだ。来店した客は自動ドアをくぐるなり、密度の濃い店内を見て十中八九げんなりした表情を見せる。
その気持ちは痛いほどよくわかる。わかるのだが、まじかよ、と思うのはなにも客だけではないということを知っていてほしいものだ。行員にとっても「散れ!」と叫びたくなるほど、土曜日の銀行は修羅場と化す。
「次の方、どうぞ~」
対応していた客を見送り、新たに対応すべく客を整理番号順に呼び出す。誰かが近づいてくるのを視界の端で捉えつつ、パソコンのモニターに意識を集中させていると、「あれ?」という声が聞こえ、は顔を上げた。
「お姉さん、この前の」
ぱっと目に飛びこんできたのは高校生くらいの女の子。だが、今の声はどう考えても彼女の発したものではない。もっと子どもじみたような……。視線をそのまま斜め下にスライドさせると、見覚えのある男の子が立っていた。
「君は、ポアロにいた……」
そう。あの日、ポアロに子どもだけでぞろぞろと入ってきた子の一人だ。安室と親し気に話していたからよく覚えている。
「銀行員のお姉さんだったんだね」
「ええ。そうよ」
名前はたしかコナンくん。
「コナンくん、知り合い?」
とコナンを不思議そうに交互に見比べていた女の子は、ふいにコナンに尋ねた。
「うん。この前ポアロで会ったんだ。安室さんと知り合いらしいよ」
知り合い……。なぜか妙な引っかかりを覚える。まぁいい。
「どうぞ、おかけください」
ひとまず二人にはカウンターの前に設置されている二脚のパイプ椅子に座るように促した。
「知り合いってほどではないのよ。また来てくれるかっていうから、そうねって答えていただけ。彼にしてみれば、ただの営業よ」
「でも安室さんの言い方、また来て頂けますよね、だったよ。それってお姉さんのことを気に入っているって証拠じゃないの?」
「へぇ。安室さん、そんなふうにおっしゃっていたんだ」
この少年、あの時さり気なく聞き耳を立てていたらしい。
「……さぁ。どうかしら」
は肩を竦めてみせてから、用件を聞き出し、女の子から振込用紙を受け取った。今どき、窓口で振込をするのは珍しいと思ったが、なるほど。そこそこ多額のお金が動くらしい。
「あなたたちも、あの人と知り合いなの?」
キーボードを弾きながら、何気なくこちらからも尋ねてみる。
「はい。安室さんは父の弟子、みたいなものでして」
「弟子?」
返ってきた単語に思わず手を止めて女の子のほうをじっと見てしまった。
「うち、探偵事務所をやっているんです。ポアロの上で」
そういえば彼、本職は探偵だと言っていたっけ。……ん? ポアロの上……探偵事務所……。
「もしかして毛利探偵事務所のこと? 父って、あなたまさか」
「はい。娘の蘭です。この子は諸事情があってうちで預かっている江戸川コナンくん」
たしかに受け取った振込用紙には毛利小五郎と記載されていた。父親に頼まれて今日はここに来たというところだろうか。
それにしても、この金額のやり取りを高校生の娘に預けるとは、よっぽど信頼を置いていないとできないよなと、わりとどうでもいいことが頭をよぎった。
「お姉さん、手際がいいね。この仕事長いの?」
「え?」
「あ、こら。ダメでしょ、コナンくん」
振込用紙に最後の印を押そうとした時に、コナンのその質問が飛んできた。
自分でも手際は悪くないと思っているし、そう訊かれることに特別驚きはしない。それなのに思わず戸惑いの声を上げてしまったのは、まさかこんな子どもから訊かれるとは思わなかったからだ。
「へんなことを訊くのね」
「すみません。この子、ちょっと変わってるんです」
純粋無垢そうなコナンの眼、最近、同じような視線に晒されたような気がして思い出した。そうだ。安室と同じ眼だ。
「別に、構わないわよ」
お客様控えの用紙を蘭に渡しながら、は続けた。
「褒めてくれてありがとう。でもそんなに長くはないのよ。一年くらいかな」
「ふうん。そうなんだ」
コナンは抑揚のない声を発しながら、椅子の上からぴょんと下りて立ち上がった。
「さぁ、行くよ、コナンくん。スーパー寄って帰ろう」
「うん」
蘭も立ち上がり、ショルダーバッグを肩に下げる。
「よかったらポアロに来た時にでも、うちに立ち寄ってみてください」
「そうね。機会があったらお邪魔してみようかしら」
「お待ちしています」
それからぺこりと頭を下げて去っていく二人を見送った。
ポアロか。しばらくご無沙汰している場所だ。は安室と顔を合わせた時のことをひとつひとつ思い出してみた。
また、近いうちに行こうかしら。
蘭やコナンと話をしていたら、無性に安室のハムサンドが恋しくなってしまった。
※
忙しさをかいくぐってなんとか時間を捻出し、その日、は三度目のポアロ来店を果たしていた。
安室のシフトがどう組まれているのかなど知るはずもない。いたらラッキー。いなかったらコーヒーだけ飲んで帰ろう。そんな気持ちでドアを開けると、そこにはちゃんと安室がいた。そしてを見るなり、安心したような笑顔を見せた。
「久しぶりじゃないですか。さん。本当に忙しかったようですね」
「ほんと、忙殺されるかと思ったわ」
は隠すことなくげんなりと愚痴を零しながらいつものカウンター席に座ると、タイミングよく目の前にお冷が置かれた。すぐさまそれに手を伸ばし、グラスの半分ほどを一気に飲み干す。
「そういえばこの前、コナンくんが銀行に行ったらあなたに会ったと言っていましたよ」
「ああ」
わりと最近なのに、遠い過去のように思うその日のことをは思い出した。
「そうね。たしかに毛利さんとこの娘さんと一緒に来たわ」
「手際がとてもよかったと褒めていましたよ」
「ははっ、それはどうも」
小学生に褒められてもなぁと思いつつ、はいつものメニューを注文した。
店内の客足は落ち着いている。休日とはいえ、開店から間もないこの時間帯はまだそんなに混雑しないのだろう。は腕時計に視線を落とした。
「今日もこのあと、用事があるんですか」
「ええ。ゆっくりしたいけど、三十分ほどで出ないと」
「そうですか。残念ですね」
それからはほとんど会話することなく、は安室が調理する姿をぼんやりと眺めていた。
ここの空気はゆっくりと流れている。気を緩めるとすぐに睡魔が襲ってきそうだった。
「だいぶお疲れのようですね。ちゃんと休んでいるんですか」
目を開けたまま意識だけがトリップしそうになったところで、テーブルの上にお皿を置く音が聞こえて現実に引き戻された。
「最低限は。心配してくれるんですか?」
「そりゃあそうですよ」
「……ありがとう」
ちょっと茶化すような口調で訊いてみると、意外にも真面目な返答が返ってきて言葉を詰まらせてしまった。
喫茶店の店員と顔見知りの客。その程度の関係だが、その程度の関係だからこそ、労りの言葉がの中で心地良く広がっていった。
実はこのあと、ひょんな展開が待っているとは露知らず、はできたてのハムサンドに手を伸ばし、大きくかぶりついた。
「さん」
のんびりしたい気持ちを抑え、足早にポアロを出たところで安室に呼び止められた。
振り返ればエプロンをつけたままの安室が立っている。店内になにか忘れ物でもしてきたのかと思ったが、彼の手にはなにも握られていない。は首を傾げた。
「いいんですか。抜けてきちゃって」
「よくはありませんね」安室は口許に人差し指を当てる。「内緒です」
その時、女子大生らしき二人組が安室の後ろを通ってポアロの中に入っていくのが見えた。二人に視線が深く突き刺さる。には見覚えがあった。安室目当ての常連客だ。
よくないと言いつつも抜けてきたのには、それなりの理由があるのだろう。それも私に。
はさっさと用件を言えと言わんばかりに視線だけで先を促すと、彼から予想外の言葉が飛び出してきて我が耳を疑った。
「お店の中ではデートのお誘いはできませんからね」
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が飛び出してしまった。
デート? 誘う? 誰が誰を?
若干混乱しつつ、頭の中で浮かべていた疑問符はどうやら顔に出ていたらしい。
「僕がさんを、ですよ」
「安室さんが私を?」
「ええ。そう聞こえませんでしたか」
安室の憎らしいにこり顔を見つめながら、は唖然とした。たしかに安室の言う通り、お店の中ではこんな誘いができないのはわかるのだが……。
「といっても、僕もなかなか時間に融通が利かない身で約束を取りつけるのは難しいんですけどね。ただ、今日を逃したらさんが次いつ来るかわからなかったものですから」
「はぁ」
で、どうですか。というような眼で見つめられては思案した。正直、ものすごく悩む。だが、今はゆっくり悩んでいる時間はなかった。
「そうですね」
は頭の中で直近のスケジュールがどうなっていたのかをめぐらせる。
そもそも悩むという時点で、すでに答えの八割は出ているようなものだ。あとは背中を押すなにかがほしいだけ。今のにとってそれは時間だった。
どこか、近いところで空いている日はあっただろうか……。
「あっ」
思い出した。
「今週の木曜日の夜なら空いています」
「本当ですか」
わずかだが、空いている時間があった。しかし、そこを逃すと向こう一ヶ月くらい空かなさそうだ。
「はい。ご飯くらいの時間しか取れませんけど。でも急すぎて安室さんのほうが、」
「問題ありません。その日は僕もちょうど空いているんですよ」
安室はポケットからスマホを取り出した。
「詳しいことはのちほど連絡します。ひとまず、連絡先を交換しましょう」
「わかりました」
もバッグからスマホを取り出し、プロフィールのQRコードを画面に表示させた。
あれよあれよという間に話が進み、奇妙な感覚に陥る。店内の客や往来する人の視線から逃れるように建物の影に身を潜め、安室の連絡先をアドレス帳に登録した。
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2018.11.13