彼女の二度目の来店はそう遠くないうちにやってきた。正直にいえば、「また来てください」は建前で言うことが多い。だが、彼女には素直にもう一度来てほしいと思った。
「本当に来てくれたんですね」
「ええ。またあなたのサンドイッチが食べたくなってしまって。あとコーヒーも」
そう言って微笑む彼女を見て、安室の表情も自然と緩んだ。
「嬉しい言葉ですね。ありがとうございます」
この前と同じカウンター席に案内し、メニュー表を渡そうとすると、彼女は片手で制してきた。
「メニューはいいわ。あなたのサンドイッチが食べたいと言ったでしょう。この前と同じハムサンドにドリンクセットでコーヒーをお願い」
「かしこまりました」
安室はカウンターの中に戻ると、さっそく調理に取りかかった。ボウルにぬるま湯を用意し、レタスを投入して温める。その間にハムに包丁を入れる。そうやって手を動かしながら彼女の様子を観察した。
彼女は頬杖を突きながら、出入り口わきの大きなガラス窓から外の通りを眺めていた。目的をもってそうしているというよりは、ただぼんやりと眺めているだけのように見える。
「そういえば、この前、訊きそびれてしまったんですよね」
あたかも今思い出したかのように切り出すと、彼女は窓の外からカウンターの中へ視線を動かし、きょとんとした。なにか訊かれなければならないことでもあっただろうか。そう言いたそうな眼をしている。
「あなたの名前です」
「ああ」
そう。職業などは訊いておきながら、いちばん大事な名前を訊き忘れていたのだ。
「そういえば名乗っていませんでしたね。です」
「さんね。覚えておきます」
「当たり前でしょう。訊いたからにはちゃんと覚えておいてください。安室透さん」
言葉はきついが、は笑っている。そして笑うたびのの耳元でピアスが揺れた。
今日の彼女はどこか女の子らしい、というと少々語弊があるが、第一印象がアレだっただけに、シフォンスカートを履いていることや唇にほんのりピンク色のリップが差されているのが、世間一般でいうかわいらしい女性に見えるのだ。
彼女は本当にあのひったくり犯を叩きのめした女性と同一人物なのだろうか。思わずそんな疑問が浮かんでしまう。
「お待たせしました」
の前にできたてのハムサンドとコーヒーを置くと、は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとう」
手を伸ばし、一口目を頬張るところをじっと観察する。何度か咀嚼を繰り返し、コーヒーで喉の奥へと流しこむ。上下する喉仏を凝視していたことにはたと気づき、安室は動揺を隠すように視線を外した。
「やっぱり安室さんのサンドイッチ、おいしいですね」
「そう言って頂けると、つくり甲斐がありますよ」
営業スマイルなのか心からのスマイルなのか、自分でも判然としない。そんな笑顔を浮かべて、安室は奥のテーブル席を片づけにいった。
カランカランとドアベルを鳴らし、新しい客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
中年のおじさんらしい体型の男性で、安室の知る限りでは初めての顔だった。「お好きな席へどうぞ」と声をかけると、男性はひとつ席を空けての隣へ腰を下ろした。
「ホットコーヒー。砂糖とミルクはいらん」
お冷とメニュー表を持って男性のそばに行くと、ぶっきらぼうに注文を告げてきた。安室は出そうとしたメニュー表を脇に挟み、伝票に書きこむ。
「コーヒーに砂糖とミルクはなしですね。かしこまりました」
不愛想な客だが、こういう客も少なくない。特別、気にすることもなく、安室はカウンターの中に戻り、カップにコーヒーを注いで手早く男性に提供した。
無言のまま一瞥もくれない、つれない客。だが、持参の新聞をなるべく邪魔にならないよう細長く四つ折りにして広げている様子を見ていると、見た目や態度とは裏腹に、案外周りに配慮できる良い人なのかもしれないと思った。
は最初は興味なさそうにコーヒーをすすっていたが、ふと目に留まった新聞記事をじっと凝視し始めた。安室もその記事を追ってみる。
「その事件、なにが目的なんでしょうね」
安室の言葉に、二人同時に顔を上げた。
「犯人の見当もついていないようですし」
それはとある製薬会社の工場からある化学物質が大量に盗まれたというものだった。
大々的に報じられているわけではなく、申し訳程度のスペースにひっそりと掲載されているのは、強盗や殺人といった重大ニュースと比べると霞んでしまうからだろう。おまけに目的もわからず犯人像も不明瞭。
「あまり大きなニュースにはなっていないけど、それなりの目的がなきゃ、こんなことしないと思うのよね」
「なにか重大な事件に結びつく可能性があると?」
「ええ。はっきりと言えないけど、そんな気がしてならないの」
は新聞から目を離し、ぱくりと残りのハムサンドを口の中に放り込んだ。
重大な事件、か。
たしか盗まれたのは、次亜塩素酸ナトリウムの水溶液だったか。主に漂白剤や殺菌剤に使われており、水道水にも微量だが含まれている。取り扱いを間違えると有毒ガスが発生して危険ではあるが、日本国内ではかなり流通している物質だ。
安室との会話をよそに新聞を読んでいた男性は、ページをめくるなりぼそりとつぶやいた。
「まったく、警察はなにをやっているんだか」
その言葉に凝縮されているもの。それはおそらくと同じ意見だ。この男性もこの事件がこんな小さな記事で終わる程度のものではないと感じ取っているのだろう。それを証拠に、彼はこう続けた。
「犯人の裏も読めないとは、最近の警察も堕ちたものだな」
その瞬間、なんとも形容しがたい空気が場を包み込んだ。そしてカチャンとそれを切り裂くような食器のぶつかり合う音。が勢いよくソーサーの上にカップを置いた音だ。雲行きが怪しくなってきた。
「メディアと警察は違います」
「は?」
の目つきが変わる。
「小さい記事でいいと判断したのはメディアでしょう? 必ずしも警察も同じ判断だったとは限らないのではないですか」
「だが、事実、犯人像も目的も見えていないだろう」
「そうかしら。もしかしたら警察が公表していないだけなのかもしれませんよ」
売り言葉に買い言葉。男性の額には青筋が見え始めている。
「知ったような言い方をするんだな。なにも知らないくせに」
「あなただってなにも知らないじゃない」
「なんだと?」
まずい。放っておくとどこまでも加速しそうだ。
「まぁまぁまぁ、二人とも落ち着いてください」
たまらず安室は仲裁に入る。このまま二人の様子を見ていたい気もするが、さすがにここでそれを披露させるのはまずいだろう。テーブル席にいる女子大生らしき二人組が迷惑そうにひそひそと話しながらこちらを見ている。
「喧嘩はよそでお願いします」
男性はまだ言い足りなさそうだったが、は早々にクールダウンして正面に向き直していた。
聞き分けがいい人でよかった。そう思ったのも束の間、伝票を片手に立ち上がったは置き土産といわんばかりに爆弾を投下してくれた。
「だいたい、みんな警察に幻想を抱きすぎなによ。警察だってただの人間。期待しすぎていいことなんてありゃしないんだから」
カチャン、と今度は男性がソーサーにカップを置く音が響く。
「癪な女だな。言わせておけば好き勝手言いやがって」
「あら、反論があるならどうぞ。ただし、反論すればするほど、あなたの嫌いな警察の肩を持つことになるけれど、それでもよければ」
「くっそ」
完全にのほうが一枚も二枚もうわてだった。男性は言い返す言葉が見つからない様子で悔しそうに口をつぐむしかなかった。
「そんなに警察がお嫌いなんですか」
「えっ」
「この前も警察が嫌いだと言っていましたよね」
安室はレジに立った時にそう訊いてみた。期待しすぎたっていいことがない。そう言いつつも、警察とメディアは違うと、警察を擁護するような言い方をしたことに引っかかりを覚えていた。
「ええ、まぁ。期待しすぎていいことがなかったというのは、経験談なものですから」
「そうですか」
先ほどの男性とのやり取りを見て確信したことがひとつ。は間違いなくあのひったくり犯を叩きのめした女性と同一人物だということだ。
表裏一体。そんな言葉が頭をよぎる。彼女の内面では相反するふたつのなにかがぶつかり合っているように感じた。
この前以上に想う。もう一度、彼女に会いたいと。
「また来て頂けますか」
が不思議そうに見つめてきた。そして言う。
「この前と同じ質問」
「駄目、ですか」
「いえ」
はクスッと笑った。
「さっきまで他の客と揉めていた私に、また来て欲しいだなんて普通言うかなと思って」
二人はちらっと、と揉めていた男性のほうを見た。彼は新聞を読むのをやめてコーヒーを口にしている。
「仮に彼が今日のことを言いふらしたとしても、極端に客足が減るほど彼に影響力があるとは思いませんからね。まぁ、あなたのその横暴さは控えたほうがいいとは思いますが」
「あなたもけっこう言いますね」
「そうですか?」
その時、またドアベルが鳴り、小学生の子どもたちがわらわらと入ってきた。毛利探偵事務所に居候しているコナンをはじめ、少年探偵団を名乗る元太、光彦、歩美の四人だ。
「おや、コナンくんたちじゃないか。いらっしゃい」
「こんにちは」
「よっ、安室の兄ちゃん。来てやったぜ」
「ありがとう。好きな席に座っていいよ」
ふと見ると、の視線は子どもたちを追いかけていた。明らかに低学年に見える小学生だけで入店してきたのが珍しいのだろう。安室としては馴染みの光景なのだが。
「また、来て頂けますよね」
念を押すようにもう一度訊くと、の視線は子どもたちから外れて安室のほうを向いた。しばし考える様子を窺わせながら「そうね」とつぶやくが、どこか申し訳なさそうだ。
「そうしたいのは山々だけど、これからしばらく忙しくなりそうで。次がいつになるかわからないけど、また来るわ」
「仕事ですか」
「いえ、プライベートのほうで」
「そうですか」
プライベートと言われてしまっては、それ以上踏みこむことはできない。
「気長にお待ちしています。いつでもいらしてください」
「ええ。ありがとう。ごちそうさまでした」
釣り銭を受け取ったは背中を向け、退店していった。
彼女は今、表情を切り替えた。瞬間的にそう思った。直感に近い確信だ。例えるなら、あたたかくて優しい世界から命のやり取りをする戦場へ向かうような表情に。
「今の女の人、安室さんの知り合い?」
お冷をもって子どもたちの席へ行くと、コナンが訪ねてきた。
「うん、そうだよ。最近、ポアロに来てくれるようになったんだ。彼女がどうかした?」
「ううん。なんでもない」
そう言いつつも、コナンは彼女がいなくなったドアを見つめていた。安室も恐れる洞察力を持った少年は、あの一瞬で彼女になにかを感じたのだろうか。
しかし、それも無理のないことなのかもしれない。安室自身、彼女には得体の知れないなにかを感じているのだから。線を引いてこちら側にいる人間にしか気づけないなにかを。
「あのお姉さん、きれいな人だったね」
「ええ。安室さんと並んだら絵になりますよ」
「ははっ、ありがとう」
子どもたちの言葉は素直すぎて、時々、返答に困る。
安室は頬を掻きながら「注文が決まったら呼んでね」と言い残してカウンターの中へ引っ込んだ。
そしてその後、忙しくなると言っていた通り、はしばらくポアロに現れなかった。
―――――――――――――――
2018.11.04