僕は、私は、あなたの名前を知らない。でも、

02

 周りに人目がないことを確認すると、はその場で大きく伸びをした。
 気温はほど良く、風も心地よい。あの時……あのひったくり騒動の時を彷彿させる気候なのが少々引っかかるが、概ね問題なく、気分も悪くない。
 そんな昼下がりのこと、は久しぶりの買い物を楽しんでいた。
 お気に入りのお店を何件かめぐり、フィーリングで数着の服を新調。性格に難があっても一応は腐っても女。やっぱり買い物は好きだし、自分を着飾るのも何だかんだで楽しい思う。今日は調子に乗ってネイルも施しており、最高に気分がよかった。
 手に下がる重みは幸せな重み。少し買いすぎてしまったかなと思うが、この洋服たちに袖を通して出かける日を想像すると、今からわくわくする。その時がいつ訪れるのかは、さっぱりわからないが少々難点なのだが。

 張り切りすぎたせいか、少し疲れてきた。腕時計を確認すれば、もう三時間近くも歩き回っていた。
 どこか一息つける場所……カフェや喫茶店はないだろうか。あたりを歩いて見つけたお店をいくつか覗いてみるが、休日のこの時間帯はどこも満席で、一息つける頃には一日が終わってしまいそうだった。
 これはさっさと帰って家でゆっくりしたほうが賢明かもしれない。どこか適当なお店でテイクアウトでもして……。そう思った矢先である。
 は思わず足を止めた。行く先に、あの時、事後処理を押しつけてしまった男性がいることに気づいてしまったからだ。
 見つかる前にUターンしよう。そう身体を反転させたのだが、視界の端で彼がこちらの存在に気づいたことに気づいてしまった。
「ちょっと待ってください。そこのあなた」
 その瞬間、の頭の中でさまざまな計算が行われていた。ここで立ち止まるのが吉なのか否か。メリットとデメリット、どちらのほうが大きいのか。それこそ、気づかないふりをして歩を進めてしまえばよいのに、結局、なにかに惹かれるようには足を止めてしまった。そして振り返る。
 目をまんまるにして心底驚いたふりをしながら「あなたは」と呟けば、近づいてきた彼と視線がかち合う。
「やっぱり。この前のひったくりを捕まえた人だ」
 他意はないのだろう。本当に偶然、見かけたから声をかけた。そんなニュアンスが男性の雰囲気から見てとれる。だが、それは相手にとって不都合という可能性も大いにあり得るのだ。
 しかし、それを表情に出してしまうほどは愚かではない。
「ああ。その節はたいへんお世話になりました」
 ぺこりと頭を下げる。まぁ、当たり障りのない挨拶をして去ればよいだけの話だ。愛想よく、いつものように笑っていればいい。そういうのは得意だ。だが、次の瞬間、は笑顔を貼りつけたまま凍りつくことになった。
「ええ、本当に。あのあとたいへんでしたよ。叩きのめしたのはどんな人だったのかと、警官に詰問されまして」
「……」
 さり気なく嫌味を言われたような気がする。いや、気のせいではない。上目遣いで男性を見上げれば、彼は人好きのする笑顔を浮かべている。
 食えない奴……。
 は本能的に、彼を警戒すべき対象と位置づけた。

「まさかこんなところでお会いするとは思いませんでしたよ。今日はお買い物かなにかですか?」
「ええ。見ての通りです」
 ショッピングバッグを掲げて見せると、男性は奇妙な顔つきになった。
「すごい量ですね」
「買い物に出るのが久しぶりで、つい買い込んでしまったんですよね。おかげでさすがに疲れてきました」
 肩を竦めてみせると、その量を持っていたら当たり前だよ、とでも言いたげな顔をされたような気がした。
「カフェかどこかで一息つけたらと思っていたんですけど、今日はどこもいっぱいで」
 あくまでもさり気なく、話の流れでそう切り出した。というよりも、さっさとこの場から離れる口実のつもりだった。ところが、男性はの予想だにしない反応を見せてきた。
「それでしたらいいお店があります。よろしければご案内しますよ」
「え? あ、いや……」
 前から飛んできたボールを左に避けたら、左からもボールが飛んできた。そんな感覚に襲われる。
「あ、もしかしてこのあと、急ぎの用などがあるんですか?」
「いえ、特には」
「それでしたら、ぜひ」
 一歩後ずさりながら思う。この強引さはなんなのだろうと。これがもし、顔のいい男ではなく、平均以下の男にされた日には鉄拳ものである。
「遠慮しないでください。ついでですから」
「はぁ」
 いったいなんのついでなのかはわからないが、はだんだん考えるのが面倒くさくなってきた。
「そこまで言うのなら、お願いしようかしら」
 休める場所を探していたのは事実なわけだし、案内してもらうだけなら別にいっか。そんな安直な思考で返事をしたのが、彼の次の言葉では激しく後悔することになった。
「といっても、僕のアルバイト先なんですけどね。ちょうど今から出勤するところだったんですよ。さぁ、行きましょう」
 なるほど。だからついでなのか。
 は頭を抱えたい気持ちを抑えて、揚々と歩き出す男性の後ろをついていった。まぁ、どうにでもなるでしょう。
 いわゆる、諦めの境地である。


 連れてこられたのは、喫茶ポアロという今どきのチェーン店とは一風変わった味のあるお店だった。
 隣は寿司屋。上には毛利探偵事務所と看板が掲げられている。……毛利、とはあの有名な毛利だろうか。噂には聞いたことがあるが、こんなところに事務所を構えていたとは知らなかった。
「あら、安室さん。その方は?」
 カランカラン、とドアベルの音を鳴らし店内に入ると、女性の従業員に声をかけられた。そりゃあそうだろう。アルバイトといえど、ここで働く人間がこれからシフトに入るというのに、同伴者を連れてきたら誰だって反射でそう尋ねるに決まっている。
「ちょっとした知り合いです。先ほど、そこで偶然出会いまして、休憩できる場所を探しているようだったので、連れてきました」
 二人が言葉を交わしているそばで、は店内を見まわした。
 カウンター席とテーブル席がいくつかあり、内装はごく一般的。レトロ感が溢れているが古さは感じられない、どこか懐かしい雰囲気をかもし出しているとは思った。
 彼が「それならいいお店があります」と言った理由がなんとなくわかるような気がした。たしかに悪くない。むしろ、どちらかといえば、好みのお店である。
「僕は奥で着替えてきますから、それまでに注文は決めておいてくださいね」
 カウンター席に通され、メニュー表を渡された。スタッフオンリーのプレートが貼られている扉の向こうへと消えていく彼の背中を追いながら、はメニュー表を開く。
 いちごのショートケーキにアイスクリーム、フレンチトースト。ごくごく一般的なメニューが並んでいる。最近よく見かける、セレブな欧米風を目指しすぎてなにがなにを差しているのかわからない横文字だらけのメニュー表と比べると、ずっとシンプルでわかりやすい。

「ご注文は決まりましたか」
 気がつけば、彼がカウンターの中に立っていた。着替えといっても、上にエプロンをつけてきただけらしい。
「ええ。このハムサンドをお願いします。あ、あとドリンクセットでブレンドコーヒーも」
 見開き冊子の間に挟まれ、ラミネート加工されて独立されたメニュー表。それを指で差しながら注文を告げると、彼はぱっと顔を輝かせて嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。それ、僕が考えたメニューで、僕がいちばん自信をもって提供できる品なんです」
「そうなんですか」
 彼の喜びようにおののきながらも、はバッグの中に手を突っ込み、読みかけの文庫本を取り出そうとした。
 彼は柔和な笑みを浮かべながら調理を始めている。あの嫌味さえなければ、はこの人を“いい人”と定めていただろう。うっかり悪い人から変な壺を買ってしまわないか心配になるくらいに。加えてこのマスク。店内には明らかに彼目当てと思われる若い女性客がちらほらと見受けられる。迂闊に話しすぎて彼と親しいと勘違いされると面倒くさそうだ。
 だが、彼のほうはまったく気にしていないようで、冷蔵庫から食材を取り出しながら、に話しかけてきた。
「少し話をしても構いませんか」
「話? 私とですか」
「ええ。嫌でしたら断ってください」
 その物言いに直感した。これは探りを入れられていると。はしばし黙考してから、文庫本にかけていた手を離した。
「どうぞ。構いませんよ」
 おもしろいじゃないか。その挑戦状、受け取ってやろうじゃないか。
 それに今日はせっかくの休日。難しいことを考えるのはやめにしよう
「で、私になにを訊きたいんですか? 大方、想像はつきますけど」
「ありがとうございます。そうですね。おそらくその想像は間違っていないと思います。仕事はなにをされているのかと」
 やっぱり。
「先日の私の身のこなしが気になったってところかしら」
「ええ。とても普通の女性の動きとは思えませんでしたから」
 普通の女性……。その普通の女性の定義とやらを教えてほしいものだ。
 もはや彼の柔和な笑みは、ただのお人よしのものには見えなくなっていた。
「あれは護身術を応用したものなんです。以前、警備会社に勤めていたことがあって、その時に教わったんですよ」
「以前、ということは、今は違うんですか」
「ええ。今はこの近くの銀行で、主に窓口業務を担当しています」
 も負けじと笑みを深くして相対した。
「へぇ。警備会社から銀行員にですか。ずいぶん畑違いな職種ですけど、なにか心境に変化でも?」
「特にないですよ。私、飽き性みたいですぐに仕事変えちゃうんですよね。ようは働ければなんでもいいんです」
 は淀みなく答えた。少々ニュアンスは異なるが、解釈の仕方次第で嘘にはならない。もっとも、嘘を言うことになったとしても、淀みなく答えられる自信はあるのだが。

 しばし探り合いが続いたが、それはハムサンドの完成とともに一旦膜を下ろした。
「お待たせしました」
 目の前にできたてのハムサンドが置かれる。思っていたよりボリュームがあり、コスパは良さそうだ。
「ありがとうございます」
 さっそく手に取り、一口かじってみると、彼が自信があると豪語するのも頷ける味が口内に広がった。思わず本音が零れ落ちてしまうほどに。
「おいしい」
「よかった。お気に召していただけたようで」
 そこには先ほどまでの空気は消え失せ、人好きのする笑顔を浮かべた彼がいた。

「安室さん」
 下げてきた食器を持ってカウンターに入ろうとする彼に声をかけると、彼は立ち止まり、「え?」と驚いた表情を見せた。
「僕、名乗りましたっけ」
「いいえ。でも、このお店に入った時にあちらの店員さんがそう呼んでいましたから」
 視線だけで奥のテーブルを拭いている女性を示す。
「そういえばそうでしたね」
 安室は合点がいったように頷き、止めていた足を動かしてカウンターの中に身体を滑りこませた。食器をシンクの上に置き、洗い物を始める。その一連の様子を眺めながら、は訊いた。
「下の名前はなんていうんですか」
「僕の名前ですか? 透ですよ。安室透」
 この質問に意味はない。ただの前ぶりのつもりだった。は目を細めて質問を重ねた。
「他にはどんなお仕事をされているんです?」
 そう訊くと、先ほどよりさらに驚いた表情で安室は顔を上げた。洗い物する手も止まり、流水音だけが数秒間流れる。
「私は教えたんですから、あなただって教えてくれてもいいじゃないですか」
「あ、いえ、そういうわけではないんですけど、どうして僕が他にも仕事をしているとわかったのかと思いまして」
「否定はしないんですね」
「ええ。事実ですから」
 洗い物は再開され、安室の手により、カチャカチャと水切りかごの中に食器が重ねられていく。
「不本意なんですけど、けっこう学生と間違えられることも多いので」
 たしかに彼のルックスは若く見える。学生ですといわれたら、そうですかと納得してしまいそうだ。だが、よく観察していれば見まがうことはないだろう。
「だってあなた、安室さんって呼ばれていたじゃないですか。学生のアルバイトだったら安室くんって呼ばれていると思うのよね。見たところしっかりしているのにアルバイトをして生計を立てているってことは、本職は不安定ってことじゃないかしら。例えばミュージシャンとか画家とか」
「なるほど。いい推理ですね。……そちらのお皿も下げていいですか」
「ええ」
 は食べ終えたお皿を安室に渡した。安室はついでのようにそのお皿もサッと荒い、水切りかごの中に収める。
「頭の切れる女性だと思っていましたが、本当に切れるようですね。本職は探偵です」
「探偵?」
 なるほど。それなら探りを入れられていると感じても仕方ないのかもしれないと思った。そしてこの喫茶店に入る時に目にした看板を思い出す。
「もしかして、この上に毛利探偵事務所があることと関係している?」
「ええ。毛利先生に弟子入りしています」
 へぇ。とは感嘆の声を漏らした。彼の生粋の性分なのか意識的なものなのかはわからないが、そういう癖をもっているのだろう。

 腕時計に視線を落とすと、ここに入店してから一時間近く経過していた。
 は伝票を持って立ち上がった。
「長居してすみません。そろそろ行きますね。案内して頂いてありがとうございました」
 最初はあんなに気乗りしていなかったのに、今は不思議と気分は悪くなかった。探り合いさえもスリルがあって楽しいと思ってしまうのは、の性分なのだろうか。
「また来て頂けますか」
 レジで勘定している最中にそう訊かれた。は改めて店内をぐるりと見まわしてみた。最初に感じた好印象は変わらずにある。
「そうね。コーヒーもサンドイッチもおいしかったし、安心して食べられそうだし、また来ようかな」
 そう答えたのは、知らず彼の不思議な魅力に憑りつかれてしまった証拠なのかもしれない。
「ありがとうございます。お待ちしています」

 安室透。喫茶ポアロでアルバイトをしている。本職は探偵。
 あの探るような眼。あれは探偵だから持ち合わせているものなのだろうか。いや、違う。あの探るような眼をはよく知っている。


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2018.11.04