爽やかな午後。ほど良い気温と心地良い風に包まれながら歩いている時、ひったくりの現場に遭遇した。
なにか、よからぬ光景が目に入った気がする。そう思った瞬間、
「あああっ、あたしのバッグーーー!」
と、あたりに女性の声が響き渡り、反射的にはその場で足を止めた。
ひったくり犯と思われる男は、めがけて突進してくる。どうしてよりにもよってこっちに向かってくるのだと悪態をついたところでどうしようもない。偶然、がそこに居合わせた。つまりはタイミングが悪かったの一言に尽きる。
は空を仰ぎたくなる気持ちを抑え、ただ茫然と迫りくる男を眺めていた。
場は一瞬にして騒然……とはならなかった。悲しきかな。世知辛い世の中は、我関せずを貫き通し、気づかないふりをして通行を続ける者が大多数だった。こんなに騒ぎ立てているのに気づかないふりをするのは限界があるだろう、と突っ込みたくなるが、これはまだかわいいほうで、なかにはあからさまに脇道に反れる者もいた。
だが、そんな中、反対側の歩道からガードレールを飛び越えてこちらへ駆けてくる男性が一人。
きっと、この男性も含めて誰もが思っただろう。このままひったくり犯が突進してきたら、吹っ飛ぶのはのほうだろうと。しかし、現実は違った。
どけ、じゃないだろう。
は内心で舌打ちをかましながら素早く身をかわし、同時に男の腕を掴んでそのままねじ伏せた。最後にとどめの一発とばかりに背中に肘を落とす。男は気を失い、うつ伏せでその場に倒れ込んだ。
「あたしのバッグ……! ありがとうございます」
「いいえ。無事でよかったですね」
バッグをひったくられ、世も末というような顔をした女性は、駆け寄るなり倒れたままの男から奪い返し、大事そうに抱えこむ。
「なんとお礼を言ったらよいのやら」
「気にすることはありません。当然のことをしたまでですから」
はまた面倒なことをやらかしてしまったと後悔の念を抱きながらも、女性に笑顔を向けた。
いざという時、とっさに動けない人間のほうが多いのだから、吹っ飛ばされたふりをして適当に倒れてしまえばよかったと今さらのように思う。だが、一度身についてしまった習慣は簡単には捻じ曲げられない。やはりこういう場に出くわすと身体は勝手に動いてしまうものだ。
「大丈夫、そうですね」
突然の第三者の声にはっとした。そういえば忘れていた。気づかないを決めこむ輩が多い中、唯一駆けてきた男性がいたことを。
「ええ。ご覧の通り」
タレ目に柔和な笑み。優男、という言葉が似合いそうな容姿だ。
「あの、なにか?」
「ああ、ごめんなさい。なんでもないです」
あまりにもじっくり観察しすぎたせいか、男性は困り顔になってしまった。人を観察するのが癖がつい出てしまったらしい。
は曖昧に目を反らしながら、次の行動をどうするか考えた。まずは警察に連絡を入れるのが定石だろう。
反らした視線を戻し、男性を見やる。男性は腰をわずかに折り、倒れている男を覗き込んでいる。
彼がここに居合わせたのも時の運。恨むのなら神さまを恨んでくれ。は一人、心の中で大きく頷いてから男性に問いかけた。
「あなた、携帯電話は持ってます?」
「え、それはもちろん持ってますけど」
「そしたら、警察に連絡をお願いできないかしら」
「僕がですか」
「ええ」
「それは構いませんが……」
男性は怪訝そうにしながらも、ジャケットのポケットからスマホを取り出し、一一〇番にダイヤルをしてくれた。その通話を横で聞きながら、はひったくられた女性のほうへ身体を向ける。
「申し訳ないけど、被害者のあなたもここに残る必要があるわ。時間は大丈夫かしら」
「え、えぇ。それはまぁ」
多少、歯切れは悪いが、だいぶ落ち着いてきたらしい。これならしっかりと受け答えができるだろう。はもう一度、心の中で大きく頷いた。
「あなたは携帯をお持ちではないんですか」
通話を終えた男性は、至極当然な疑問を投げかけてきた。飛んでくると思っていた質問なだけに、は淀みなく答える。
「まさか。もちろん持ってますよ。今どき、持っていない人のほうが珍しいでしょう」
「はぁ」
にっこり笑いながらバッグから携帯を取り出し、掲げて見せた。黒いケースに収められ、ストラップもなにもつけていないシンプルなスマートホン。愛用歴は一年弱といったところか。
警察への連絡は自分でしてもよかったのだが、彼にお願いしたのはもちろん、そこにの魂胆が隠れていたからだ。
「ただ、私はこれから急ぎの用があって立ち去らせていただきたいので、あなたに連絡をお願いしたんです」
「……は?」
一瞬にして一様に空気が固まった。男性は、コイツ、なに言ってんだ? みたいな顔をしている。
「いや、しかし、証言者が」
「それはあなた一人いれば十分でしょう」
「この状況をどう説明しろと?」
男性は倒れたままの男を指で差して訴えてきた。はなんとか舌打ちをかますのは堪えたが、顔が心底嫌そうに歪んでしまうのを抑えることはできなかった。思わず本音が漏れてしまう。
「めんどくさいわね」
通報を受けた警察は、現場にもっとも近い警官に連絡を入れて派遣させる。たしかここはこのすぐ先の交差点に交番があったはずだ。もたもたしていたらあっという間に警官が駆けつけてきてしまう。
もはや取り繕うことを忘れては露骨に吐き捨てた。
「警察って嫌いなのよ」
「は?」
そして足を一歩後退させながら、さらに続ける。
「適当に通りすがりの人が叩きのめしたとでも説明しておいてください」
長居は無用とばかりに身を翻し、己の肩越しに片手を上げる。
「では、失礼」
最後はちゃっかり笑顔で挨拶をすれば、取り残された男性が人差し指で頬を掻く仕草が視界の端に飛び込んできた。
ひったくりに遭遇したのは最悪極まりない。だが、彼が居合わせたことは幸運だった。
ただでさえ、毎日面倒事の渦中に立たされているというのに、こんなところまで面倒事に巻き込まれたくない。ましてや、警察官と顔を合わせるなど、まっぴらごめんだ。
もう後ろは振り向かない。完全に他人のふり。そう決め込んで数歩進んだところで大事なことを言い忘れていたことに気がついた。仕方なく立ち止まり、振り返る。
「言い忘れてました。感謝状などはいっさいいらないので、間違っても私を探さないでくださいね」
通りの向こうから交番勤務の警官が駆けてくるのを認めながら、はとびきりの笑顔でそう告げた。
―――――――――――――――
2018.11.04