いつもと変わらない目覚ましの音で目が覚める。
朝食をとって、身支度を整えて、家を出る。
いつもと変わらない朝……。


家を出て会社に向かう。これもいつもと変わらない日常。
強いて変わることといえば、この寒さだろう。もう3月の半ばだというのに、今朝の気温は5℃を下回っていて、日中も10℃まで上がらないという。ニュースでそう言っていた。それを聞いて慌てて仕舞いかけていた冬用のコートを引っ張りだしてきたのは、言うまでもない。せっかく春用のコートを準備したっていうのに。昨日までの過ごしやすさは一体どこへいったのだろうか。これでは春のおとずれを心待ちにしている花や虫たちもさぞかし驚いてることだろう。
おまけにこのどんよりとした空。
私は今にも降り出してきそうな空を見上げた。


「おい、ゆーと!」

はっとして声のする方を見た。ランドセルを背負った男の子が3人、脇をすり抜けて行く。

ゆーと。その単語を聞くと、無条件に体が反応してしまう。
そして思い出す、今や世界で活躍する彼の姿を。

あとはこの横断歩道を渡れば駅に着くというところで、ついに降り出してきた。
季節はずれの雪。白い雪が一粒、頬に落ちてきては一瞬にして透明な姿に変わる。
今日は本当に冷える。
春はまだ来ないのだろうか……。


中学生の頃、サッカーでとりわけ有名だった若菜くんと私が初めて同じクラスになったのは3年生の時。卒業後はお互い違う高校に進学したから、共に同じ時間を過ごしたのはこの1年だけだった。もう、中学を卒業してから10年くらい経つけれど、あれ以来、若菜くんと会うこともないどころか連絡さえも取ったことがない。それほど親しい間柄じゃなかったから、当然のことと言えば当然のことではあるのだけど。
それでも少しだけ、ほんの少しだけ若菜くんに近づけたんじゃないのかと思えた時もあった。


年に数回ある席替えで、一度だけ若菜くんと前後の席になったことがある。前が若菜くんで後ろが私。友達にはずいぶんと羨ましがられたのをよく覚えてる。
当時の私はどちらかというと、クラスではあまり目立たない方で、仲の良い友達以外とはほとんど話すことがなかった。そんな私とは対照的に若菜くんは男の子からも女の子からも人気があって、誰とでもすぐに仲良くなっちゃってて、私はひそかに憧れていた。だから、席が近くなった時は素直に嬉しかったんだ。


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「なぁなぁ、今日の英語、予習してあったら見せてくれね? 俺、今日、ぜってーあてられると思うんだよ」

突然のことだった。若菜くんが振り返って話しかけてきたのは。

「いいけど。若菜くんはやってきてないの?」
「昨日はサッカーで疲れてて、すぐ寝ちまったんだよなー。頼むっ、!」

断る気なんてさらさら無かった私は、どうぞと既に机の上に準備されていたノートを渡した。若菜くんは。それを受け取ってサンキュと言い、自分のノートに訳を写しはじめた。
不思議な感じがした。この時が初めて若菜くんと会話したはずなのに、全然そんな気がしなかった。


授業中は予想通り、若菜くんはあてられていた。若菜くんが私の訳を読む。読み終わると先生が「お前にしてはすごいなぁ。この文は少し難しかったんだけどな」と言って褒めていた。「いやぁ、俺だってやればできるんっスよ〜」と若菜くんが返すと、教室では小さな笑いが起きた。おいおい、それは私が訳した文章だぞと思ったけど、嫌な気はしなかったんだ。むしろ嬉しい気さえした。


、マジ、サンキュな。助かったよ〜」

授業終了のチャイムとともに若菜くんは振り返って私にお礼を言ってきた。

「そんな、全然いいよ。私も役に立てて嬉しいし」

おまけに褒められちゃって、気分いいぜ。なんてぼやいてる若菜くんを見ながら私は思った。例え、若菜くんはサッカーをしてなくても、人を惹きつける人なんだろうなって。私にはないものをたくさん持っている若菜くんが眩しかった。


「とにかくサンキュな。俺さー、サッカーやってて学校来れない日も多いから、しょっちゅう授業わかんなくなるんだよね。だから、また見せてもらうかも」

ちょっと意外だった。若菜くんの頭の中はサッカー一色だと思ってたけど、一応、勉強のことも気にしてたんだなって。

「それは構わないけど。……私で良かったら、わからないところ少し教えるよ?」
「マジ!? やった! 頼むよ」

どうしてそんなことを言ったのか、自分でもよくわからなかった。気付いたら自然と口から出ていたんだ。もしかしたら、少しでも若菜くんの役に立ちたいと無意識のうちに思っていたのかもしれない。

それを聞いた若菜くんの明るい顔がさらに明るくなった。あまりに喜ぶものだから、ちゃんと教えられるかだんだん不安になってきて、私の教えられる範囲ならねと付け足しておいた。


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その後、約束通り、何度か若菜くんに勉強を教えた。特に約束するわけでもなく、授業の合間にさっとやってしまうことが多かった。理解してもらうまでは大変だったけど、一度、理解してしまえばそこから先は早かったと思う。どんな内容であれ、若菜くんと話すのは楽しかったし、私は若菜くんに近づけたような気がしてて嬉しかった。
席が前後だった、ほんの3か月ほどのひと時の夢。


また席替えをして席が離れてからは、勉強を教えることはなくなっていった。会えば挨拶を交わす程度の仲で卒業式を迎えた。そして、私たちは別々の道を進んでいった。


あの頃はただ漠然と若菜くんに憧れていたけど、今は、あれは恋だったんじゃないかと思う。そうでなければ、今のこの気持ちの説明がつかない。だって、ほら、そこの改札を抜けた先に、あなたがいる気がするんだもの。電車から降りてくる人たちの中に、あなたのおもかげを探す。いるはずがないと知っていながら。


ラッシュアワーの人ごみに揉まれていると、前に立っている中年のサラリーマンが持っているスポーツ新聞が目に入った。『若菜結人 海外移籍 決定か』という記事。
そうか、彼はまだまだ上を目指して頑張っているんだ……。私もまだまだやれる、か。そんなことを思いながら、電車の激しい揺れに負けないよう、思いっきり足を踏ん張った。


いつまでこんな気持ちを引きずっているんだろうと思っていたけれど、もう少しこの気持ちと付き合ってみようと思う。
だから……、私の気持ちが変わるその日まで、私の心は若菜くんに預けておこうと思う。預かっといてなんて、頼んではないけれど。


雪はまだ降り続いている。
止む気配もなく、この調子だと積もるだろう。
春が来るのは、まだ先のようだ……。

遠い春



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2011.08.31 加筆修正
2014.07.08 編集