「名前、何ていうの?」
「と申します」
ここは箱根強羅に位置する老舗旅館のフロント。は半年ほど前からここに住み込みで働いていた。そしてこの箱根界隈では、あの旅館に超絶美人がやってきたと専らの噂になっていた。その噂は広がるに広がり、箱根に住まう人だけではなく箱根に訪れる者たちにまで及んでいた。
今、に名前を尋ねてきたのは、夕食用の食材を運んできてくれた運送屋のお兄さんだ。
「さんね。前から声掛けたいって思ってたんだよね。今度、食事でもどう?」
「ありがたい話ですけど、遠慮させていただきますね」
「そう身構えなくても。最初は軽い気持ちでいいからさ」
「……下心がおありなのでしたら、なおのことお断りです」
カウンターに両肘を乗せながら誘ってくる運ちゃんに一瞥もせず、はパソコンで伝票を作成しながら淡々と対応した。なるべく運ちゃんの方は見ないようにとパソコン画面を注視するよう心掛けていたのだが、その視界の端には違う男の姿を捉えていた。
―― 今日は厄日なのかしら……。
「まぁいいや。今日のところは諦めて帰るよ。また今度ね。さん」
「時間の無駄になりますから、もうお誘いに来ない方が良いですよ」
運ちゃんは頬をポリポリと掻き、苦い顔をしながらその場を去っていった。そしてすれ違うように新たな男がのところへやってくる。運ちゃんはその男の顔に見覚えがあるらしく、「どもっス」と頭を下げていった。
「相変わらず辛辣な対応だな。ちゃん」
「これはこれは東堂庵の嫡男様。何用でござりましょうか?」
なおもはパソコン画面を注視しながらキーボードを叩いていた。新たにやって来た男は先ほどまで運ちゃんがいた位置で運ちゃんと同じ態勢を取り、の顔を覗き込んだ。
「先ほどの彼に名を教えたのか?」
「訊かれましたから」
彼はジーンズにスプリングコートと随分ラフな恰好をしているが、と同業の者だ。おまけにこちらは雇われていると違って、小涌谷に位置する老舗旅館、東堂庵の嫡男ときてる。名は東堂尽八。
の美貌も有名だが、この東堂も自称美形と称するだけあってまぁまぁ恰好良い部類に入る……と思う。
如何にも気に入らない。ということを前面に出してくる東堂もまた、懲りもせず何度もに誘いを掛ける男の一人であった。
に誘いを掛けてくる男は少なくない。その中でもとりわけしつこさが目に付くのが東堂だった。大抵の者は二、三回あしらえばもう誘いは掛けてこなくなるのだが、東堂はいくら辛辣にあしらってもいつも同じ顔してひょっこりやってくる。どうやら東堂の辞書には”諦める”という単語がないらしい。
「それで、本当に何の用なんですか? いつまでもそこにいられると業務の邪魔です」
「まぁそう言わずに。もちろんデートの誘いに来たに決まっているだろう?」
「業務中です。お引き取りください」
「いやいや、俺は知っているぞ。ちゃんはあと十五分ほどで上がると」
「何を根拠に仰ってるんですか? わたしのシフトを勝手に決めないでください」
は盛大にため息を吐いて見せた。
仕切りなしに声を掛けてくる東堂に、最初のうちは同じ地域で同じ生業をする者として丁寧に断っていたのだが、まったくもって引くことを知らない東堂にの対応は日に日に棘を持つようになっていった。にもかかわらず、この有り様だ。
今日だっていかにも自信ありげなしたり顔をしている。……その自信はいったいどこからやってくるものなの?
実を言うと東堂の言う通り、はあと十五分ほどで上がる時間になる。だが、それを悟られてしまったら東堂は絶対帰らなくなるだろう。ここは何としてもシラを切らなければ。
ところが、タイミングというのはいつも悪いものだ。
「あら、東堂さんじゃない。いらっしゃい」
「女将さん。お世話さまです」
がどうやって東堂に帰ってもらおうかと考えあぐねていると、奥からここの旅館の女将が出てきた。
は努めて顔に出さないようにしていたが、内心、頭を抱えて、げえええぇ。と叫んでいた。
新たな因子の登場は東堂に帰ってもらうというの願いを遠ざける。
「デートのお誘いかい?」
「はい。でもなかなか頷いてくれないんですよ。ちゃん」
「もったいないわねぇ。一回くらい誘いを受けてみなさいよ。そのままお嫁に行ってもらって構わないくらいよ」
とんだ爆弾発言だ。しかも、よりにもよって東堂に向かって落とすとは。この女将、爽やかな顔をして腹の中は真っ黒に違いない。普段は優しく可愛がってくれる頼れる女将なのだが、今日ばかりはたてつきたい気分だ。
「冗談でもやめてください。わたし、ここで働けなくなります」
「構いやしないわよ。あんたの代わりなんていくらでもいるんだから」
「そんな……」
絶望の淵に立たされるとは、こういうことを言うのか? 言うんだよね!?
ぐさりと女将の言葉が突き刺さり、キーボードの上を滑らせていたの手はすっかり止まっていた。
女将はに近づきパソコン画面を覗き込んだ。作成していた伝票はほぼ出来上がっており、あとは微調整のみだった。
「今日はもう上がりでいいわ」
はパソコンの前から押しのけられてしまった。
「えっ、まだ伝票が……」
「ここまで出来上がっていれば十分よ。とっとと着替えてきなさい。早くしないと今度は抜けられなくなるわよ」
が上がるのと同時にチェックインが始まる。そうなると一気に忙しくなるので、抜けるタイミングを失ってしまう。
と入れ違いでシフトに入る二人の従業員はすでに裏で待機してるはずだ。
「でも、」
「あー、うるさいうるさい。……東堂さんさっさと連れてってちょうだい」
「うむ。決まりだな。女将さん、感謝するよ」
「この子、明日の夕方までシフトに入っていないから、今日は帰さなくてもいいわよ」
「ちょ、ちょっと、女将さんっ!!」
何て事を……。せっかく黙っていたというのに。
は従業員室へと繋がる暖簾の先へぐいぐい押しやられる。
その時に東堂と女将の顔を見て、はっとした。
「女将さん、計りましたね!?」
「おや、気づいちゃった? あんたのそういう賢いところ好きよ。手放すのが惜しいくらいにね」
「さっきと言ってることが……」
「そりゃそうよ。あんたほどの逸材を手放すのは惜しいわよ。けど、それ以上にあんたが心配なのよ」
もうわけがわからない。女将の矛盾した発言も、東堂の諦めのなさも。そして女将が東堂に加担する理由も。
に近づいてくる男はたくさんいるのに、どうして東堂の肩だけ持つの?
「俺は表で待っている。支度が済んだら出てきてくれ。急がなくていいぞ」
そんな東堂の声を背中には制服である着物の帯を解いた。
※
女将の計らいで東堂と出掛ける羽目になってしまったは始終ぶすっとしていた。
男の人と出掛けるなんて、いつぶりだろう?
思い出すのが難しいくらい、箱根に来てからのの生活は暗く閉ざされていた。そんなにとって些か東堂は眩しすぎる。
「ちゃんはなぜ旅館に?」
「住み込みで働けると知って。……実家に居たくなかったんです」
「そうか」
と東堂は強羅からケーブルカーとロープウェイを乗り継いで桃源台まで行き、そこから海賊船に乗っていた。
このコースは箱根に来たばかりの頃に一度だけ辿ったことがある。しかし、それはお客さんに観光地の説明をするために体験しておいたことで、言わば仕事の一環だった。その時に一緒に回ったのは女将であり、今日のようにプライベートで、しかも男の人と回るのは初めてのことだ。
「仕事の内容に興味があったわけではありません。東堂さんからしてみたら、わたしみたいな人は気に入らないのではないですか?」
「そうだな。だが、選ぶ理由は人それぞれだろう。……実際はどうだ? やってみて」
「……悪くないです」
は両親と不仲だった。の家は長いこと続いている家系らしく、その血を絶やさないようにと幼い頃から教え込まれてきた。当代は子宝に恵まれ、の下にも二人いる。しかし、皮肉なことに全員女だった。そしては長女である。年齢を重ねるごとに良い婿を取るようにとかかってくるプレッシャー。望まないお見合い。の容姿だけ見て寄ってくる男たち……。
男関係はもううんざりだ。
そんな時だった。たまたま開いていたインターネットの広告の記事に旅館の求人情報が出ているのを見つけたのは。
直感で応募し、採用をもらったのが今働いている旅館だ。そして実際にやってみたおもてなしの仕事は、想像以上にやりがいを与えてくれた。
のバックグラウンドを根掘り葉掘り訊かずに雇ってくれた女将には、ただならぬ恩を感じていた。だからこそ持てる力全てを使って貢献したいと思っている。
そう思っていたのに、当の女将からあんたの代わりはいくらでもいると言われ、少し……いや、かなり、すごくショックを受けている。
「誰かに喜んでもらえるのは素直に嬉しいです。でも、わたしには向いていないのかもしれませんね。愛想もないですし」
「何を言っている? ちゃんは可愛いぞ。魅力もたっぷりある」
「……ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
海賊船は少しずつ景色を変えながらゆっくりと進んでいく。約三十分の船旅はもう間もなく終わり、元箱根へ到着する。
東堂は予約済みだというレストランにを招待した。
賄いと自炊以外の食事をとるのは久しぶりだった。おいしい食事は幸福感を満たしてくれる。ほんの少しだけ心にかかる靄が晴れた気がした。
食事の後は芦ノ湖の湖畔を散歩した。この時間帯になると観光客は姿を消し、地元の者が数人散歩しているだけだ。
はちらりと隣を歩く東堂を見上げた。
いつも口元に笑みを浮かべて楽しそうにしているが、これが本当の彼の顔なのだろうか。この笑みの向こう側には別の東堂尽八がいるのではないだろうか。
本当はもう気づいている。東堂はただの軽い男ではなく、理知的できめ細かい人だということは。ただ気づかないふりをしているだけ。
今日だってそうだ。強引に連れ出したくせに不快になるラインは決して越えてこない。が窮屈にならないようにと計算しつくされた行動に思わず参ったと言ってしまいそうだった。
しばらく無言で歩いていると、前方から犬の散歩をしている男性が歩いてきた。すれ違い際、男性は首が振り切れるまでをまじまじと見つめていた。としてはこんな風に見られるのは初めてのことではないので気にもとめていなかったのだが、東堂としてはそういうわけにはいかなかったらしい。
「……なぜだ? なぜこんなに暗いのに、すれ違う野郎どもは皆、ちゃんの美貌に気づくのだ!?」
「? 何を仰ってるんですか?」
東堂は立ち止まり、呻くような声を上げて悶絶し出した。そして意を決したようにの身体を抱き寄せた。
「えっ、ちょ、ちょっと、やめてくださいっ……!」
「すまない。そろそろ我慢の限界だ」
東堂より二十センチほど背の低いは目元まで東堂の肩に埋まり、声は必然的にくぐもる。
とっさに離れようとするが、もがけばもがくほど逃がすまいと東堂の力は強くなっていった。
「暴れると返って目立ってしまうぞ」
その一言にの動きはぴたりと止まった。
「離してください」
「嫌だ」
「……離れてください」
「同じではないか」
東堂の腕の中はとても熱かった。平均体温が人並み以下のの身体は一気に熱を持つ。それにはもちろん、この態勢に対する羞恥も多分に含まれているのだが。
ここにきて初めて一線を越えてきたわけなのだが、なぜか不快には思わなかった。その答えはの中でうっすらと浮かび上がっている。ただ、それを認めるのが怖いだけ。
「いい加減。俺に落ちてはくれんかね?」
静かに耳元から聞こえてくる優しい声。吐息が耳を掠ってくすぐったい。
男関係なんてもううんざりだって思ったはずなのに。嫌だなぁ。この感じ。
「……わたしの、何がいいんですか?」
「その美貌はもちろんだが、弱いくせに強がっているその心もひっくるめて好きだと思っている」
―― ほら、やっぱり。
東堂はの本質を見抜いていた。の強がりは、弱い自分を見せてくないが故の自己防衛からくるものなのだと。自身、そのことには気づいていたのだが、寄ってたかってくる者たちは誰も気づいてくれない。挙句の果て、そのサドっぽいところが好きだと言ってくる輩もいたくらいだ。
「東堂さんには敵いませんね」
「それはイエスととってよいのか?」
「いいえ。あなたのことは恰好良いと思っています。……たぶん。でもそれだけなんです」
東堂には敵わないと思う。だけど、その手はまだ取れない。東堂は確かに顔は整っており、近くで見るとドキドキする。百歩譲ってそれは認めよう。だが、その余計なフィルターが邪魔をして東堂の本質が見えてこないのだ。これではも人のことは言えない。こんな状態で東堂の手を取ってしまっては、今まで自分が否定してきたことを覆すことになってしまう。
東堂は一度身体を離し、の両頬を手で包み込んで視線を合わせた。その表情にはいつもの笑みが浮かんでいない。これがきっと、笑顔の向こう側にいる東堂尽八という男なのだ。
そう気がついた瞬間、の心臓は大きく跳ね上がった。
「今はそれで構わない。違えばすぐにわかるだろう」
悔しい。悔しいけどもう負けを認めるしかない。
は堪らず東堂の身体にしがみついた。
結局はこの男のことが気になって仕方ないのだ。全てを見抜いていた女将には白旗を上げるしかない。
でもやっぱり悔しい。
「嫌いよ。あなたのことなんて」
近づいてくる東堂の顔。距離がゼロになる直前にそう呟いては瞳を閉じた。
難攻不落
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最近、赤司くんのことばかり考えていたので、久しぶりに東堂さんのことを考えられて楽しかったです。たとえあっちへふらふらこっちへふらふらしようと、ペダルへの愛はぶれません。東堂さんが原作で再登場する日を今か今かと待ちわびています。
余談ですが、芦ノ湖湖畔のくだりを書いてる時は夜の9時半あたりでした。夜の芦ノ湖ってどんなんなんだろ?人はいないよなぁ。きっと。という風に想像の世界で書いていたのですが、その時ふと、芦ノ湖ってライブカメラとかないのかなと思って検索してみました。すると、なんとありました。さっそくライブ映像を映し出してみる。おぉ……真っ暗で何も見えない!!! 当然と言えば当然ですね。
箱根界隈、芦ノ湖以外にもライブポイントがあり、それらも映し出してみたのですが、人気のない道路を時折車が通り抜ける、何ともシュールな画でもう笑うしかありませんでした。
日中(特に休日)ならもっと賑わっているのだと思います。気になる方はぜひ見てみてください。
2016.04.29