東堂尽八に彼女ができたという噂は、驚くほど急激なスピードで広がっていった。自らをアイドルであるかのように称える、あの東堂尽八に特定の彼女ができたとなれば、それはそれは大きな波紋を広げることになる。直接、接触しようとする者は少ないものの、物見遊山のごとく彼女の教室の前を通る際に一目見ようと、教室の中をのぞき込む生徒があとを絶たなかった。

友人どうしで顔を寄せ合い、ひそひそと話していてよく聞こえないのがほとんどだが、少なからず聞こえてきてしまうものもあった。その中でも最も多く囁かれていたのが

「案外、ふつうだね」だ。

ふつうで悪かったな!!
ふつうで何が悪い!!

心の中で盛大に叫んだ。だけど、いくら心の中で虚勢を張ったとしても、やっぱり好奇の目に晒されることには慣れなくて、ひそひそ声が聞こえる度にの心は疲弊していく一方だった。


制服のポケットの中で携帯のバイブレーションが震えた。取り出して見てみれば、渦中の東堂からのメールだった。東堂は事あるごとに連絡を寄こすのが好きなようで、東堂と付き合うようになってからのメールボックスや電話の着信履歴は東堂の名前で占められるようになっていた。こういう何気ないやり取りができるのも東堂の心を得た特権というやつなのだろう。それ自体は嫌なわけではない。むしろ、東堂からの着信を告げるたびに頬が緩むくらいには嬉しいと思うし、幸せだと感じる。そう、幸せなはずなんだ。それなのに時折、胸の奥が締めつけられるかのように苦しくなるのはどうして? 幸せなのに、幸せじゃない……。

は廊下の片隅にある自動販売機の前で立ち止まり、小銭を投入して抹茶オレのボタンを押した。すると、隣に細長い影。と同じように小銭を投入し、ガコンといい音を立てて落ちてきたのは、ペプシだった。

「あ、靖友だ」
「ヨォ」

荒北がペットボトルのキャップを開けると、プシュっと炭酸のフレッシュな音がした。まるで今のとは真逆な音だ。荒北はをじっと見つめた。

「何? 私の顔に何かついてる?」
「いや、」

なんだろう、この感じ。自意識過剰すぎるんじゃないかと自分をあざ笑いたくなるけれど、そんな瞳で見つめられているともしかしたら心配してくれているんじゃないかなと思ってしまう。いや、まさかね。荒北に限って……。そうやって自分の考えを半分ほど捨て掛けた時、最近ではお馴染みのあの場面に遭遇した。

「ねぇ、あそこの荒北くんと一緒にいるのって」
「そうそう、東堂くんの」

ひそひそ話のようでひそひそ話になっていない、そんな会話。人気のないこの廊下では、ひそひその効力は無効化されてしまうようだ。
まる聞こえなんですけど。それとも、あえて聞こえるようにしていらっしゃるのだろうか。どのみち、こちらとしては愉快ではないことは確かなんだけど。

そのひそひそになり得なかった会話は当然のように荒北の耳にも入る。荒北は眉間にしわを寄せ、容赦なく彼女らの方へガンを飛ばした。その視線に気がついた彼女らは、バツが悪そうにそそくさとその場を立ち去っていったが、の視線は自販機を見つめて固まったままだった。

「あんま無理すンな」

舌打ちと共に贈られた言葉はやっぱりを気にかける言葉だった。
何が? と虚勢を張る余裕が今のにはなかった。あの荒北が他人に向かって気にかける言葉をかけるなんて、天と地がひっくり返っても起こり得ないと思っていたのに、こうもあっさりと心配されてしまったのは、それだけ心が疲弊していることが表ににじみ出てしまっていた証拠なのだろう。悔しいな。

ポンと手の甲で軽くの肩を突いた荒北は彼女らが去っていったのと同じ方向へ去っていった。「ありがとう」と、小さく呟いた声はきっと荒北には届いていない。届いていたとしても、きっと「っせ。礼言うな」と叱咤されるのだろうけど。


前にも進めず、後ろにも戻れない。もやもやした日々を過ごしていたけれど、霧が晴れる日は、そう遠くはなかった。

とある日の昼休み、は職員室へ向かうべく喧噪感溢れる廊下を歩いていた。
その日は朝から何かとついていなかった。朝から寝坊をぶちかまし、慌てて食堂に駆け込めばお気に入りの日替わり朝食メニューは品切れ。仕方なく適当に頼んだメニューを慌ててかき込めば今度は盛大にむせ、水を求めてグラスに手を伸ばすと、手元が狂ってグラスをひっくり返してしまった。まだ半分以上入っていた水は前の席に座っていた人の朝食トレイに湖を作っていた。ほとんど食べ終わっていたことが不幸中の幸いだった。学校に来てからは来てからで、いざ鞄の中を開けてみるとペンケースが見当たらない。昨晩、取り組んだ課題と一緒に机に広げたまま忘れてきたらしい。あぁ最悪だ。まさに踏んだり蹴ったり。

シャーペンと消しゴムは取り急ぎ予備を持っていた友人から借りた。そして今まさに、その忘れた課題をやり直して職員室へ提出しに行くところだった。

廊下の角を曲がると、そこには男子数人と東堂がいた。その時、なぜか嫌な予感がすると直感したはとっさに足を止め、壁際に身を潜めた。

「……いろいろ噂が立っているぞ」

ほらね。やっぱり。嫌な予感は的中。
会話の冒頭はよく聞こえなかったけど、東堂に向かって「噂」なんて言葉を使うのは、十中八九、が関係していると容易に想像がつく。
どうしようかな。職員室はこのすぐ先だけど、このまま引き返して違うルートから行くべきか。
今、平静を装って彼らの前を通っていく勇気がにはなかった。

「噂とはどんな噂だ?」
「お前の彼女のことだよ。お前が特定の彼女をつくったことだけでも驚きなのに……」
「ふつうすぎる。と?」

その先は当人に向かって言いづらかったのか、続きは東堂自身が紡いだ。
そしてその東堂の口から出た「ふつう」という言葉がをその場から動けなくさせた。手に力が入り、持っていたプリントにはしわが刻まれていく。視界が狭まり、世界が暗転していくかのように頭から血の気が引いていった。

知ってる。そんなことは知ってる。カリスマ性のある東堂が自分みたいなふつうの女の子を選んだことに一番驚いているのは、他ならぬ自分自身なのだから。それでもやっぱり、東堂の口から「ふつう」と言われるのは想像以上に衝撃が走った。まるで鈍器で殴られたみたいに痛くて、このまま暗い海の底に沈んで、消えてしまいたい。そう思った矢先、

「だが、オレにとってはふつうではないのだがな」

え?
目の前が急に明るくなった。

「ふつうとかふつうじゃないとか、そんなところに彼女の価値はないのだよ」
「よくわかんねぇけど、そういうもんなのか?」
「そういうものだ」

あぁ、私は何に悩んでいたんだろう。
は壁にもたれたまま、ズルズルと膝を崩してその場に座り込んだ。

「だがしかし、オレが女子たちの注目の的であり続けることは変わらないがな!」

軽いノリで交わされる会話が、には重く大きな意味を成していた。の心を突き落とすのも東堂なら、深いところへ深いところへと沈みかけていた心をすくい上げてくれるのもまた、東堂だった。



見上げればそこには好きな人がいた。
ねぇ、わかってて言ったんでしょ? 私がここにいるってわかっててあんなこと言ったんだよね?
そうじゃなきゃ、そんな風に平静と目の前に現れるはずがないよね?

「どうしたんだい。ひどい顔をしておるぞ」

東堂はと同じ視線の高さまでしゃがみ込み、の頭の上に手のひらをポンと乗せた。

「ごめん」
「なぜ謝る? 謝られなければならないことをされた覚えはないのだが」

嘘をつけ。全部お見通しのくせに。
東堂は最初からずっとのことを特別に見てくれていた。それなのに、の方はといえば……。カリスマ性があって誰からも特別に見られる東堂と、ふつうに見える自分が肩を並べるなんて申し訳ないとずっと思っていた。人の目ばかり気にして、もっと自分にもカリスマ性があればよかったのにと、無意味に落ち込んでいた。でもそれは大きな間違いだった。

みんなにとって特別だから東堂を好きなんじゃない。
私が好きだから好きなんだ。

そんな簡単なことにさえ気づけなかった自分が悔しくて仕方がない。
結局のところ、他の人と同じ目線でしか東堂を見ていなかったことになる。

「ごめんなさい」
「だからなぜ謝る? 礼なら喜んで受け取るが、謝罪はいらないぞ」

そう言って穏やかに口許を緩める東堂にはやっぱりすべてお見通しだったのだろう。が自分を卑下していたことも、東堂を東堂として見ていなかったことも全部。
それでもなお、東堂は伸ばした手を掴んで優しく握り返してくれる。だから今度は間違えない。謝らせてくれないというのなら、大切なことに気づかせてくれた東堂には心を込めて容赦のないほど感謝の言葉を伝えよう。

「ありがとう」

彼女の価値



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お前は誰だ? 東堂だ!!! 私の中で東堂さんが行方不明です。
とある小説の中で使われていた「彼女の価値」という言葉に、ピーンときてできたお話です。何の小説かわかった片はすごいです。そしてタイトルにひねりがないのはいつものことです。
2014.12.14