「お、おじゃまします」

今日はかねてよりおつき合いをしている東堂の実家に来ていた。明治から続く由緒ある旅館だと聞いている。その立派な構えには初っ端からおののき、裏口からお邪魔したというのについ身を縮こまらせてしまった。

「そう硬くなることもなかろう」

そうは言っても、築25年のありふれた一軒家で育った身としては環境が違いすぎる。生まれてこの方、立派な旅館に泊まったことがないには何もかもが新鮮に見えた。しっかりと掃除がいき届いている廊下。価値のほどはわからないけど、立派に見える骨董の品々。私なんかが歩いていいものなのかとは躊躇い、東堂の後ろを歩く足は自然と忍び足になっていた。

「あなたがちゃんね。いらっしゃい。尽八から話は聞いているわ」

廊下の先から和服に身を包んだ女性が現れた。まさかと思いながら東堂の方へ視線を投げかけると、東堂は深く頷いてみせた。

「うむ。うちの母親だ」
「おじゃましてます」

やっぱりお母さんだった……! は恐縮しながら頭を下げた。東堂の母親は綺麗だった。顔がというよりも、身のこなしや表情のひとつひとつが繊細で美しい。さすがは歴史のある旅館で女将を務めている方だ。自分の普段の口の悪さを思うと、穴があったら入りたい気持ちになる。しかし、それよりも気になったのは、東堂は母親に何を話していたのかということ。どうやら東堂はの話をしていたようだけど、いったいどんな話をしていたのだろう。

「少しゆっくりしたら、あとで下に降りていらっしゃい。浴衣を着せてあげるから」
「え、そんな……! 申し訳ないからいいですよ!!」
「遠慮しなくてもいいぞ。うちには浴衣がたくさんあるからな」
「そうよ。ただ、私はちょっと手が離せないから、他の人に着つけてもうらことになるけど」

それは余計に申し訳ない気がする。そう言ってみたけど、「もう着つける人にお願いしてあるから」と言われ、首を縦に振る他なかった。それに二人の嬉しそうな顔を見ていると断る方がもっと申し訳ないように思えてきて、結局あとで着つけてもらうことになった。


今日は8月16日。箱根の観光名所の一つである強羅でお祭のある日だ。今年のインターハイも終わり、このお盆シーズンは学校も閉鎖してしまうため、おのずと部活動も休止する。とはいえ、寝ても覚めても自転車な彼らにとっては、それぞれ自由に自転車に乗って、思うままに走っていることなのだろう。東堂も午前中は自転車に乗り、午後からはこうしてと過ごしていた。

嬉しいなぁ。こんなに長い時間一緒にいられるのは初めて。普段から一緒にいることは多かったし、夏休みに入ってからも部活でいつも顔を合わせていたけど、それは全部学校でのお話だ。こうして学校から離れてゆっくりと同じ時間を過ごせるのは初めてで、夢のように思う。


初めて入る東堂の部屋は、思っていた通り、綺麗に整っていた。無駄なものがない……とまではいかないけど、きちんと整理されている。高校に入るまでこの部屋で過ごしていたのかと思うと不思議。どんなふうにロードバイクと出逢い、どんなふうに成長していったのだろう? 東堂のことについてまだ知らないことがたくさんあった。

部屋の中では二人で並んで座りながら、いろんな話をした。そういえばこんなに話したことも今までなかったっけ。東堂はとにかくよく喋る。聞いているこっちが疲れてしまいそうなくらいだ。そして身ぶり手ぶりも大きい。東堂が動くと肩や腕がに当たり、触れる度にそこは熱を帯びていく。ずっと触れ合っていたい衝動に駆られる。よく考えてみなくても、ここは東堂の部屋で、しかも二人きり。今更その状況に動揺が生まれ始めた。

「そろそろ頃合いか」
東堂が壁にかかる時計を見上げて言う。
「頃合い?」
「少し早いが着替えよう。ちょうどいい時間に出ると電車が混むからな。早めに出た方がいい」
「そっか」
それはありがたかった。このままこの部屋で二人きりでいたら、緊張でどうにかしてしまいそうだったから。

ここから強羅に向かうとなると登山鉄道を使うことになる。祭の日となれば大混雑は必至だ。と東堂は部屋を出て階段を下り、あらかじめ言われていた襖の部屋に入った。部屋の中にはすでに人がスタンバイしていたが、その人を見てさっきとは違う動揺がに走った。え、ちょっと待って。もしかしてこのお方って……、

「うちの祖母だ」

やっぱり……!! お母さんが女将ってことは、おばあさんは大女将ってことだよね? そんな大御所に着つけてもらうだなんて、恐れ多すぎて無意識のうちに背筋をピンと伸ばしてしまった。

「あら、少し早かったわね」
「うむ。早めに出ようと思ってな。オレは上で待っているから、よろしく頼むよ」
東堂はさわやかにそう言うと、固まっているを置き去りにして襖を閉じてしまった。
「よ、よろしくお願いします」
「まぁそんな硬くなりなさんな」
「はい。……あの、こんな忙しい時期にすみません」
気にすることはないと言いながら大女将は上品な色合いの浴衣を取り出し、はおそるおそるその袖に手を通した。

お盆シーズンとなればこういう観光地は書き入れ時だろう。そんな中、大女将がこんなところで何の儲けにもならない女子高生の着つけなんてやってていいのだろうかと思ったけど、当の本人は気にしている様子はなかった。最初は緊張して何を話したらいいのかわからなかったけど、少しずつ話は弾んでいった。大女将は中学校までの東堂の話を聴かせてくれた。だからはそのお返しに今の学校での東堂の様子を話して聴かせた。東堂も家族にの話をしているのだから、これでおあいこだろう。


大女将に浴衣を着せてもらったは東堂の部屋に戻った。部屋の引戸を引くと、そこにはと同じように浴衣で身を包んだ東堂がいた。

「お、戻ってきたな。よく似合っているではないか」
「尽八も着替えたんだね」
いつもと違う装いってだけで、こんなにどきどきするものなのか。
「ああ、せっかくだからな。お揃いの方がよかろう」
紺色にうっすらとストライプが入った浴衣姿の東堂はとてもよく似合っていた。
「髪も結ってもらったのだな」

優しさを孕んだ目で見つめられ、は堪らなくなって目を逸らしてしまった。どうしてそんなに見つめられるのだろう。こっちはさっきからどきどきが止まらなくてうまく見れないというのに。


東堂家から外に出ると、そこはすでに祭で高揚している空気が漂っていた。いつもは観光客で賑わっている箱根は、今日ばかりは地元の人たちも賑わいを見せている。駅までの道のりは混んでいて、二人の距離は自然と近づく。その距離にはどきどきしながら歩いていた。

「うわ、すごい人だね」
「年に一度の祭だからな」
登山鉄道のホームは人でごった返していた。電車の中も殺人的な混み具合である。
「出入口付近は混むから奥までいこう。どうせ降りるのは終点だ」

とはいえ、すし詰め状態であることには変わりなかった。つかまる場所もままならないは東堂に支えられた。どうしよう。こんなひっきりなしにくっついてるのは前代未聞だ。さっきから心臓の音が鳴り止まなくてうるさい。不可抗力とはいえ、こんなに密着していることに鼓動は早まるばかりだ。

人ごみをかいくぐりながら強羅に着き、駅から少し離れた辺りでようやく人波が落ちついてきた。次第にの心にも余裕が戻ってくる。東堂家を出た時はまだ明るかった空も、今はその姿を闇に変えつつあった。
大文字焼と花火を観賞するのに選んだ場所は強羅公園。この期間、公園内はイルミネーションで彩られ夜間入場ができるようになっている。幻想的なイルミネーションに目を奪われながら公園内を散策する。手はいつの間にか繋がれていた。そしていよいよ祭の始まる時間となった。

明星ヶ岳に火が灯り、最初は何の形かわからなかったものが次第に大の字に姿を変えていく。空には花火も上がり、真夏の夜は熱く盛り上がっていた。腹の底まで響く花火の轟音と眩しいほどの大文字焼。今この場所だけが日常から切り取られた空間みたいで、気がついたらはすがるように東堂に寄り添っていた。

「どうしたんだ?」
「うん、綺麗だなって思って」

ぴったりとくっつくを東堂は鬱陶しがっている様子はなく、むしろ東堂も身を寄せてくれているようで二人の間にはすき間がなかった。周りにはファミリーも多いけど、同じように寄り添い会うカップルもたくさんいる。いつもなら人の目を気にしてこんなにくっつくことなんて出来ないけど、今夜だけはこの祭の雰囲気に背中を押されて素直に甘えられるような気がした。

「尽八」
「なんだね?」
「好きだよ」
「…な、なにを急に」
慌てる東堂がおかしくて、は思わず笑ってしまった。
「わ、笑うな」
「ごめんね。ただ、前よりもずっと好きだなぁって思って」

ほんと、いつの間にこんなに好きになっていたんだろう。そしてこの好きな気持ちはいったいどこまで上り続けるのだろう。いつか上り切ってしまったら、下降する他なくなってしまうのだろうか。東堂に気持ちが傾けば傾くほど、不安は比例して大きくなっていく。東堂はそんなの不安な気持ちをくみ取るように、繋がれた手をより強く握りしめてくれた。

「また来年も来よう。もちろん再来年も」
「うん」
「その先の約束は、再来年にしよう」
「……うん」

その先の約束は再来年、か。うん、それくらいがちょうどいいのかも。未来を約束するには二人ともまだまだ若すぎる。だったら今のこの幸せな気持ちを大事にしないとばちが当たるってもんだよね。


来年は、来年の来年を。来年の来年は、来年の来年の来年を約束できるように、今は今を重ねよう。

あつい夏の夜に交わす約束



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なけなしの知識をはたいてリアル箱根を舞台に書いてみましたが、限界がありました。年に一度の祭とか言わせてますけど、芦ノ湖の方まで行けば他にも祭はありますね。そしてどんどん崩れていくヒロイン像…。そろそろ高校生以外でも書いてみようかな。
2014.09.03