「やっべ」
声を潜めるをいうことを知らなさそうなほど盛大にピンチを主張する声が聞こえてきて、は首を左に向けた。
その声に反してさしてピンチそうに見えない高尾がそこにはいた。ロッカーの中をくまなく捜索している様子だが、目的のものが見つからないのだろう。「っかしーなぁ」とか何とか、独り言にしては大きすぎる呟きを零しながら何度も同じ場所を捜索している。
とりわけ、誰かの反応を待っているわけではないのだろうけど、はとりあえず定石にならって「どうしたの?」と声を掛けてみた。
「日本史の教科書、先週置きっぱにして帰ったと思ってたんだけど、ねーんだよな」
高尾はちらりとの方に視線を向けてから丁寧に答えるものの、捜索の手を止めることはない。
そこ確かめるの何度目? と訊きたくなるほど同じ場所を往復する手。二度三度確かめるのはよしとして、それ以上はただの無駄な作業だと思うんだけど……。ということはもちろん言わない。
そういえば次の高尾の授業は日本史だったか。
この学校はちょっと特殊で、文系コースと理系コースに分かれてはいるが、クラスで区別されているわけではない。つまり一つのクラスの中に文系と理系が混在している。現代文や情報など共通の科目はクラス単位で授業を受けて、選択科目は移動教室で受けるシステムになっている。
は理系コースで高尾は文系コースだった。
「私の貸そうか?」
「そういやは理系なんだっけか」
「うん。だから次の授業では使わないし」
理系コースの中にも社会科目があり、は日本史を選択している。そして文系と理系の授業は同じ科目であっても異なる時間割で動いてるため、授業が被ることはない。
自分のロッカーから日本史の教科書を取り出し、高尾へ「どうぞ」と手渡すと、高尾は「わりーな。マジ助かる」と屈託のない笑顔で受け取った。
「らくがきはほどほどにね」
「そこはしないでねじゃないんだ」
「楽しみにしてるから」
「話かみ合ってねーぞ。……別にいいけど。とりあえずサンキュな」
高尾が教室を出ていく背中を見送り、もロッカーから必要な教科書や資料集を取り出した。
次のの授業は化学である。
※
退屈な授業が終わり、校内は放課後独特の空気に包まれていた。
あちらこちらから盛んに部活が行われている音が聞こえてくる。グラウンドからは野球部のバッドがボールを打つ音やサッカー部のホイッスルの音。体育館からはバレー部のスパイクを打つ音やバスケ部のバッシュと床の摩擦音。そして空き教室や廊下の片隅で個人練習をしている吹奏楽部の楽器の音。
は吹奏楽部に所属しており、空き教室を貸し切って放課後の空気をつくる一人として貢献していた。奏でるのはフルートの音色。母が高校の時に使っていたものを譲り受けた楽器なので、年季は入ってる。それでも、今でもなお、輝きを失っていないのは大事に手入れされてきた証拠なのだろう。
夢中で音を奏で、ふと窓へ視線を移してみると外は夜の帳が落ちていた。窓ガラスには譜面台とフルートを持つ自分の姿が映し出されている。今日のメニューは個人練でキリのいいところで各自切り上げていいことになっている。
完全下校の時間まではまだ少しあるが、今日はもう上がってしまおう。
つば抜きをするために楽器を分解しようとしたところで、開きっぱなしの教室の出入り口に誰かが立っているのが窓ガラスに映った。
「あ、やめちゃうんだ」
「高尾くん。どうしたの? 忘れ物?」
なわけないようなぁ。と内心自分に突っ込みながらも、ありきたりな質問をぶつけてみる。ここは二人の教室ではないのだから、忘れ物を取りにここに来るはずがない。
「綺麗な音に誘われて来てみたらがいた。……っていうのは冗談で、外からここにいるの見えたから来てみた。教科書返してなかったからどうしようっかなって」
「別に明日でいいのに」
「……そうだな。まぁ、今のは建前だ」
建前? いまいち高尾がここへ来た理由と話の流れが見えず、は首を捻りながらつば抜きを続けた。それから専用の布で磨いてくもりを取り除いていく。
「さ、あの教科書、他の誰かにも貸したことあるだろ?」
「そうね。何人かに貸したことあるわね」
どうしてそんなことがわかったんだろう。という疑問が浮かんだが、それは一瞬で納得がいく理由に思い至って消え去る。明らかにがやったわけではないらくがきがあの教科書に施されているからだ。例えば歴史上人物の肖像画にヒゲを生やしてある。とか。
「は誰に対しても優しすぎるんじゃね? いつか身を滅ぼすぜ」
はゆっくりとその言葉を脳内に浸透させ、間を置いてからパタンとケースの蓋を閉じた。
たかだが数人に教科書を貸したくらいで、そこまでの指摘を受ける謂れはない。日頃のの言動からそう思ったのかもしれないが、それにしてもそう思われるのは……心外だ。
「私、誰に対しても優しくしたいわけじゃないから。優しくしたい人にしか優しくしない」
半ば睨むように高尾の瞳を見据えて言い放つ。余裕の笑みを浮かべているところも何だか気にくわない。
「高尾くんこそ、誰にだって分け隔てなく接して優しいじゃない」
「いやいやいや、分け隔てなく接するのと優しくするのは、別の次元でしょ」
「同じでしょ」
「違うね」
意味のわからない押し問答にイライラが募っていく。せっかく今日は気持ちよく楽器を吹けていたのに、最悪な一日の終わりだ。気がつけば完全下校のチャイムが鳴るまで十分を切っている。
は機嫌の悪さを全面に押し出したまま雑に鞄を肩に掛け、サブバックに楽器を仕舞った。
その時、高尾はふっと柔らかい笑みを浮かべた。先ほどとは全く質の違う笑みに一瞬動揺する。
「悪い悪い。そういきり立つなって。そういうわけだから一緒に帰ろーぜ」
「……どうしてそういう流れになるの?」
「オレもと同じってこと。こんなに暗いのに、女子一人で帰るのは危ないだろ?」
高尾に教室を出るように促され、電気を消して一緒に廊下に出る。並んで歩いていると、点検で見回っている守衛さんとすれ違った。「さよなら〜」と守衛さんとあいさつを交わす高尾の隣では「やっぱり優しいじゃない」と小さく呟いた。
「そりゃそうだ。オレが一番に優しくしたいのはなんだから」
とっさに言葉を紡ぎ出すことができなかった。
高尾はと同じだと言った。優しくしたい人にしか優しくしないと同じだと。つまり高尾にとっては優しくしたいと思う特別というわけで……。いやいや、思い上がりにもほどがある。
駆け引きのような言葉の裏の裏に隠された意味を探ろうとして混乱に陥っていく。
どういう意味? と突っ込んで訊けないのは、膨れ上がった期待を裏切られるのが怖いから。
結局、この日はうやむやなまま帰るしかなかった。
翌日、高尾から返してもらった教科書で授業を受けている時のこと。
教師が本文を読み進めていくのを目で追いながらページを捲ると、新たならくがきが増えていることに気がついた。
らくがきされるのは別に構わない。教科書の機能を失わない限りは目くじらを立てて怒るつもりはない。何より、返ってくるたびに施されてるらくがきに吹き出してしまうことも少なくなく、楽しみだったりもする。
でも、これはちょっと困る……。
ページを捲った先にある広めの余白。そこには『好きだぜ タカオ』と書かれていた。
消しゴムで消すことを試みてみたが、シャーペンで書かれた文字は消しゴムで擦ってもくっきりと跡が残ってしまう。
とんでもないらくがきを施してくれたものだ。
この教科書はもう二度と誰にも貸せないではないか。
高尾以外の誰にも――。
は赤面した顔を隠すようにその場でうな垂れた。
優しさの意味
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勝手な秀徳高校の設定で書き進めました。おそらくこの一話オンリーの設定になると思います。
2016.04.13