偶然
―― それは何の因果関係もなく、予期しないことが起こること(goo辞書より)




点滅している信号機。慌てて横断歩道を渡っていく人々を横目で眺めながら、わたしは潔く次の青信号を待つべく立ち止まった。だって、走るのとか疲れるじゃない。別に急いでるわけでもないし。
そんなめんどくさがりなわたしの性格があったからこそ、この偶然を引き寄せることができたんだと思う。

「あれ、ちゃん?」

横断歩道のどセンター最前列で次の信号を待っていると、懐かしい声に名前を呼ばれた。
日々積み重ねられていく記憶に埋もれかけていた声。それでも潜在意識の中で忘れることのできなかった声の色は、瞬間にして記憶を呼び戻す。わたしはこの声を知っていると。

「もしかして、新開さん?」
「他に誰に見える?」

逆に問われてわたしは押し黙った。新開さんはヒュ〜と口笛を鳴らし、「こんなところで会うなんて偶然だね」と片目を閉じて見せた。
急な再会に感慨深くなりたいところだが、信号は容赦なく青に切り替わる。せきを切ったように流れ出す人々。わたしたちも例外なくその波に乗って白いラインを横切っていく。
わたしはちらっと新開さんを見上げてから口を開いた。

「びっくりしました。まさかこんなところで会うなんて」
「オレも」

そして今度は頭のてっぺんからつま先まで見回してみた。

「なに? なにか変?」
「あ、いえ。新開さん、大人っぽくなったなぁと思って」
「まぁ、これでも成人してるからね」

新開さんは人差し指で頬をポリポリと掻きながら、苦笑いを浮かべる。

「そういうちゃんも美人になっていて驚いたよ」
「……まぁ、わたしも一応、今年で成人しますから」

”美人”という言葉にどぎまぎしながら、わたしは照れを隠すように新開さんの腕に視線を落とした。
相も変わらず自転車で鍛えているようで、しなやかな筋肉がより一層、新開さんの色っぽさを引き立てている。半袖から覗かせる腕の筋をじっと眺めながら触れてみたいな……なんて考えが浮かんできて、わたしは慌てて正面を向いた。

わたしは今年二十歳を迎えて、新開さんは二十一歳を迎える。わたしは大学二年生で、新開さんは大学三年生。高校の頃の先輩と後輩。
新開さんが卒業して以来会っていないから、約三年ぶりの再会になる。

「……ちゃん。ちゃん」
「は、はいっ!!」
「大丈夫?」
「すみません。ぼーっとしてました」

はっとして意識を取り戻すと、真正面に覗き込む新開さんの顔があった。そのあまりの近さと想像以上に大きく出た自分の声に驚いて、わたしは反射的に一歩身を引いた。さっきから挙動不審な行動ばかりで、そろそろ変な奴に思われてしまいそうだ。
新開さんは、「ぼんやりしながら歩いてると人とぶつかるぞ」と笑った。確かに駅に近いこの通りは人の往来が絶えない場所だ。

「ところでちゃん、この後何か用事でもある?」
「え、用事ですか? 特にないですけど……」
「オーケー。じゃあ、お茶でもしようか」





「ここのパフェ、うまいんだ」
「へぇ、そうなんてすか。新開さんのおすすめはどれですか?」

ここは新開さんの行きつけのカフェらしい。突然のお誘い、もちろん断るなんて選択肢を持ち合わせていないわたしはあっさりと首を縦に振り、今、新開さんと向かい合って座っている。とは言え、自分の身なりが気になるのもまた事実。こんな偶然が待ち受けていると知っていたら、もっときれいな恰好をしてきたのに。

「……ってところかな。どう? 参考になった?」
「はい」

そうすればきっと、こんな風にいい加減な返事をすることも免れただろう。
さて、困ったことに新開さんの話はまるで耳に入ってこなかったため、結局どれがおすすめなのかわからない。
わたしはもう一度メニューをざっと眺めて、奥の手を使うことにした。

「新開さんは何にするんですか?」
「オレはこのチョコミントのやつにしようかな」
「チョコミント……。何だか斬新な味がしそうですね。わたしもそれにしてみようかな」
「え、そう? じゃあオレはこっちのにしようかな。同じのはつまらない。オレの少しあげるからちゃんのも少しわけて」

わたしは思わず奇妙なものを見るような目で新開さんを見つめてしまった。
わたしと新開さんは高校の頃の先輩と後輩とはいえ、そこまで親しかったわけではない。わたしはよくありがちな同じ部活のマネージャーというポジションにいたわけではないのだ。わたしは図書委員で新開さんは図書室をよく利用する生徒。接点らしい接点はこれくらいしかなかった。それでも裏を返せばたったそれだけの接点で名前を呼んでもらえるようになったわけだから、わずかなきっかけも馬鹿にできたものではないのだけれど。

「……あっ、もしかして嫌だった?」
「いえ、嫌じゃないです」
「よし。じゃあ決まりな」


しばらくしてオーダーしたパフェがわたしたちの前に並べられた。わたしはチョコミントパフェ。新開さんはレアチーズイチゴパフェ。パフェ用の独特な形をした細長いスプーンで一口すくって頬張ると、爽やかな味が広がった。うん、やっぱり味は斬新だけどおいしいことは確かだ。

「へぇ、驚いた。そんな近くにいたんだ」

わたしたちの会話は専ら高校卒業以降のこと。わたしも新開さんも高校を出てから一人暮らしをしていた。そして今、わたしと新開さんの大学の最寄り駅が一つしか変わらないことが発覚した。

「電車の中とかで遭遇しそうなもんだけど、案外会わないもんなんだな。……一口ちょうだい」
「……どうぞ」

会話の途中でスプーンを持つ手を伸ばされ、わたしはすっとパフェを前に差し出した。少し間が空いてしまったのは新開さんの行動に驚いていたからだ。
新開さんは躊躇うことなくわたしのパフェから一口すくい、それを口に運ぶ。その一連の動作をわたしの視線はずっと追っていた。

「うん。やっぱりうまい」
「新開さんは彼女さんとかいらっしゃらないんですか?」
「え、いないけど。何で?」

ですよねぇ。そうじゃなきゃ、この状況おかしいですもんねぇ。と心の中で苦笑しながら、表では「いえ、何となく」と答えた。だが、この後の新開さんの言葉がわたしの心臓を思いっきり飛び上がらせることになる。

「いたらこんな風にちゃんと一緒にいられないよ」

その言葉の意味を良いように解釈しそうになり、わたしは強制的に思考を遮断した。
たしかに新開さんなら相手がいたとしたらその人が不安になるような行動はとらないだろうと思う。
新開さんはどんな人を好きになるんだろう? わたしの知らないどこかで誰かとおつき合いしたことあるのかな。そんな疑問が次から次へと浮かんできて、わずかに、だけどごまかすことはできない痛みを胸に覚えた。
それにわたしは気づいてしまった。この胸の痛みには、”今日だけで終わりにしなくない”という儚げな願いが含まれていることに。このままこのカフェを出て「じゃあね」と手を振って別れたら、また今日みたいに偶然を頼る以外に新開さんと会う術をわたしは持っていない。その理由はいたって単純。わたしと新開さんはお互いの連絡先を知らないからだ。

わたしより一年早く高校の学び舎を去っていく新開さんに「アドレスを交換しませんか?」と言えるほど、わたしと新開さんの距離は近くなかった。訊いてしまえばその瞬間にわたしの気持ちを知られてしまう。その恐怖心が一歩踏み出す勇気を妨げていた。そんなほんの少しの躊躇いが今日まで尾を引くと知っていれば、勇気を出すこともできたかもしれないと思うが、それも今となっては戻ることのできない過去のこと。

パフェを食べ進めるにつれて、だんだん暗く重たい気持ちがのしかかってくる。食べきってしまったら後はお店を出るだけ。そしてここでこうして新開さんと過ごした記憶は日に日に薄れていって、ありきたりな日常に戻っていく。
そう思えば思うほど、わたしのスプーンの動きは遅くなっていった。新開さんはあと三口ほどで終わってしまいそうなのに。
また会いたいと思うのなら、取るべき行動は一つだけ。連絡先を訊けばいいだけの話だ。

早くしないと、ほら、新開さんのパフェはあと一口で終わってしまう。

「あ、ごめん」
「えっ」
「少し分けるって言ったのに、すっかり忘れてた」

新開さんはそう言うと、最後の一口が乗ったスプーンをわたしの方に向けた。どうやらわたしがぼーっとしてたのはパフェのことを気にしているからだと勘違いされたらしい。……そんなことすっかり忘れていたよ。
わたしは新開さんとスプーンを交互に見やってから躊躇いがちに口を開くと、レアチーズとイチゴの甘い味が広がった。

「最後の一口だったのに、すみません」
「いいや、そういう約束だったじゃないか。どう? うまいだろ?」
「はい」
ちゃんはゆっくり食べな」

新開さんは少し前のめりに両肘をついた。まるでわたしを観察するみたいに。
見つめられてることに居たたまれなくなったわたしは、倍速でスプーンを動かし始めた。



「うわっ、もうこんな時間か」

過ぎて欲しくない時間ほど過ぎるのは早いものだ。向かい合って座ってから、もう二時間も経過していた。

「出ようか」
「……はい」

新開さんは自然な動作で伝票を持って先にレジに向かう。わたしは慌ててこの座席に下ろし始めていた根を無理やり引きちぎって新開さんの後を追いかけた。

「会計はオレが持つよ。誘ったのはオレだし」
「そんな……私も払いますよ。嫌々つき合ったわけではないですから」
「まぁいいから」

財布を取り出したわたしの手を制して先に外に出てろと言わんばかりに背中を向けられてしまった。わたしは右往左往するしかなく、役目を果たせなかった財布は鞄に仕舞う他なかった。
会計を終えた新開さんと外に出ると、外は闇を迎える準備を整えていた。行き交う人々の往来を目の当たりにして瞬時に現実に戻される。束の間の夢の終わりはもうすぐそこだ。そう思った。

「今日の会計は本当にいいからさ、その代わりと言ってはなんだけど、今度はちゃんの好きなお店に連れてってよ」
「えっ……」

突然立ち止まった新開さんの背中に激突しそうになり、寸でのところで踏みとどまって顔を上げると新開さんの視線とぶつかった。

「だからさ、連絡先教えて」

連絡先教えて……。その言葉を頭の中で反芻する。何度も何度も。
それはわたしのセリフになるはずだったのに、聞き間違いではないのかと我が耳を疑った。だけど、新開さんの強い瞳が間違いではないと語っている。

「いいですけど……、そんなこと言われると期待しちゃいますよ」

新開さんは答える代わりに口元に弧を描いた。それは肯定ととらえていいよと言ってるような仕草で、わたしの期待値は振り切れてしまいそうなほどにぐんぐんと上昇を始めた。どうやらもう少し夢を見てもいいらしい。


時として偶然は運命と同義になるのかもしれない。
そんなことを思いながら、わたしは鞄から携帯を取り出した。

偶然は時として



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随分前に書いてストックしていたお話なので、当時何を思って書いたのか思い出せません。新開さんの筋肉は色っぽいよな……とか、そんなことを考えていたような気がします。
2016.04.13