湯煙と熱気に包まれる浴室で翼はシャワーで汗を流していた。
静寂の夜に響き渡るのは、水音と己の息遣いのみ。耳を澄ましてみても、浴室の外からは何の音もしなかった。
―― 静かだ。
シャワーを浴び終えた翼はラフな部屋着に身を包み、廊下からリビングへと繋がる扉を開けた。
約十八畳のリビングダイニングキッチン。一人で生活するには広すぎるその空間の奥に位置するソファを覗き込んでみれば、そこには案の定、寝息を立てているの姿があった。
夕方あたりからぼんやりしているとは思っていたが、耐えられなくなって眠ってしまったようだ。残念な気持ち半分、ゆっくり休んで欲しい気持ち半分。
翼は薄手の毛布を持ってきての身体にそっと掛けてやった。
すやすや眠る穏やかな寝顔を見て、愛しさと切なさが同時にこみ上げてくる。そっと手を伸ばし、の顔に掛かる前髪をよけてみる。
今、鏡を見たら自分はどんな顔をしているのだろう。きっと情けない顔をしているのだろうな。
なるべく音を立てないようにキッチンに立ち、ココアを入れた。冷めてしまうことは想定のもと、一応、の分も準備をしてリビングへ戻る。
ソファは占拠されているので、ソファに背中を預けるかたちで床に直接腰を下ろした。
とはつき合い始めて五年ほど経つ。日本代表のヘッドコーチのヘマがきっかけで知り合った。
コーチがとの食事の約束と翼との食事の約束をブッキングさせたのだ。そこでコーチのとった行動は、どちらかを断るのではなく、どちらも相席させるというものだった。
当時の翼としては、変に気を遣うのは嫌でどちらか片方を断って欲しかったのだが、今となっては相席させてくれたことを感謝してもしきれないほど感謝している。
そろそろコーチにもきちんとお礼を言いたいし、身の振り方も考えなければとも思う。自分のためにも彼女のためにも。
こうして夜を共に過ごす時間が稀ではなく、常になることを望んでいるのだから。
「あなたを嫌いになったわけではないけど、一緒にはいられない」
そう言って離れていったかつての恋人。この人となら……と考えていた矢先のことだったので、それなりに衝撃を受け、へこみもした。だが、最後に行きついた答えは“仕方ない”だった。
結局、その時の彼女はそれまでだったということなのだろう。
何があってもサッカーが最優先であることは覆らない。それは昔も今も変わらない。
だけどもし、今、から同じ言葉で別れを告げられたらどうだろう?
想像してみた途端、得体の知れない恐怖に襲われた。
サッカーが二の次になるなんてあってはならない話だけど、を手放すなんてこともあり得ない。
が隣にいない人生だなんて……。
そうであるならば、選ぶべき道はもう一つしか残されていない。
そしてその時には、コーチの元へ挨拶しに行こう。と二人で。
明日、に心からの言葉を伝えよう。
そう決め、ひとまず今日のところは寝息を立てているを寝室まで運ぼうと翼は振り返った。振り返ってぎょっとした。
眠っているとばかり思っていたとぱっちり目が合ったのだ。
「なんだ。目が覚めていたなら声かけてよ」
内心驚いたことを悟られないように、努めて平静に話す。
「ごめんなさい」
はゆっくりと身体を起こした。
「なんだか翼さんの背中が寂しそうに見えて、声をかけづらかったの」
正直、ドキリとした。そして一人で憂いていたところを見られていたのかと気恥ずかしさがこみ上げてくる。
目は据わっているのに、まだ意識がはっきりしないのか、身体を起こしたまま動かない。
明日、に心からの言葉を伝えよう。
そう思ったのはつい先ほど。でも違う。きっと明日じゃ駄目だ。
「ねぇ。は将来どうしたいとか、考えてる?」
背中を向けたまま、さり気なく問いかける。だが、実際はさり気なく見せかけているだけで、一世一代の大告白である。の言葉一つで絶望に打ちひしがれるか、未来へ繋がる糸となるのか……。
柄にもなく心臓のうるさい音を聞きながらからの言葉を待つが、なかなかの声は聞こえてこなかった。
まだ頭がぼんやりしているのだろうか。それともまた眠ってしまったのだろうか。
不安を掻きたてられて堪らず振り返ると、今度はとてもきれいな……とても優し気に微笑むと目が合った。
「私は翼さんとずっと一緒にいたいなぁ」
それ以外の未来はあり得ないと、何の疑いも持たない笑み。その笑顔に心を奪われたのは言うまでもない。
―― 一体、何に悩んでいたんだろう……。
ただ自分の望むままに、のことを信じていれば何の問題もなかったではないか。
「翼さん、なんで笑ってるの?」
気づけば口元には笑みが浮かんでいた。これを笑わずにいられるものか。肩がすーっと軽くなっていくのを感じた。これもそれも全部のおかげだ。の言動一つで憂うこともあるが、そこから救い上げてくれるのもまたの言動一つなのである。
「、好きだよ」
「なっ……、いきなり何?」
「結婚しよう」
「……」
あんぐりと口を開けたまま固まっている。すっごい間抜け面なのに、それさえも可愛いと思ってしまうのは、きっと惚れた弱み。
「返事は?」
「えっ……あ、はい」
何ともはっきりしない返事だけど、今はまぁ仕方ない。及第点というところで許してやろう。
予定とは全然違うかたちで告げることになってしまい、指輪も何も準備できなかったのは少しばかり痛いところではあったけど、それでもきっとこの機以外にベストなタイミングは、この先訪れることはないだろう。
そういう意味では後悔は一ミリもない。
「目、覚めた?」
「……信じられない。こんな寝起きの状態でプロポーズされるだなんて」
「俺とずっと一緒にいたいんでしょ? それは結婚したいってことじゃないの?」
「それはそうだけど……、ほら、雰囲気とかいろいろあるじゃない!!」
憤慨しながらも、の目に涙が溜まっていることはもちろん見逃してはいない。そっと手を伸ばして涙を拭ってやると、ぎゃあぎゃあ騒いでいたの動きがピタッと止まった。
「私で……いいの?」
さっきまでの威勢はどこへやら。弱々しい声では呟いた。
「当たり前だろ。そうじゃなきゃ結婚しようなんて言わないし、そもそも五年もつき合っていない」
「そうだよね。ありがとう。嬉しい。……ずっと不安だったから」
不安という言葉にはっとした。も信じてはいても不安を拭い去ることはできなかったのだろう。そんなの心も身体も全てを守っていきたいと思った。
「明日、指輪を見繕いに行こうか」
その微笑みとともに。
一世一代の告白
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赤司くん高尾くんのお話のラストを彷彿させる内容になっているのはたぶん気のせいではない。最近、結婚とか一緒に暮らすとか、そういうネタが多い気がします。意図してるわけではないけど、なんだか自分の潜在意識の中にある願望みたいで笑えない。年のせいだな。きっと。
そして久しぶりに翼さんを書いてみたら、私の翼さんは迷子になっていることに気がつきました。……帰ってきてください。私の翼さん。
2016.08.29