暑い夏の日差しの中、際限なく降り続ける蝉時雨をバックにわたしたち三人は駅のホームに立っていた。わたしとわたしの隣の家に住む幼馴染の巻島裕介くん、そしてわたしのいとこの紗南。みんな同い年の高校三年生だ。
お盆は明けたというのに太陽は手を緩めることなく、連日容赦なく地面を温めている。仕事熱心なのは感心だが、何もここまで残業しなくてもいいのに。
わたしたち三人は時間さえ合えば共に過ごすことが多かった。とはいえ、わたしと裕介くんは部活をやっていたからそこまでしょっちゅう会うことはできなかった。だけど夏の大会を終えた今、確実に今までよりは時間を共有することが増えた。ここ、総北高校周辺でも幾度となくわたしたち三人を見かけた者も少なくないだろう。
よく一緒にいる三人。気づけば三人セット。仲の良さそうな三人。もちろんわたしも二人のことは好きだし、かけがえのない存在だと思っている。だけど、そこには綺麗な感情以外のものも醜く蠢いていた。
ホームに下りの電車が入ってきた。吹きつける風は心地いいものではなく熱風だ。
よく一緒にいる三人。気づけば三人セット。仲の良さそうな三人。でもここから先は三人一緒ではない。
「ちゃんは今日も塾だよね? がんばって」
「お疲れっショ」
そう、わたしだけ乗る電車が違う。電車のドアが開き、流れるように人が降りてくる。それと同時に上りの電車が間もなく反対側のホームに入ってくることを告げるアナウンス。わたしが乗るのはこっちの電車だ。
夏休み。大学受験を考える者たちにとっては基礎を積み上げる大事な時期だ。夏期講習を催す学校も少なくないだろう。わたしも二人も夏期講習の帰りだった。残暑が厳しい中、少しでも暑さを紛らわすために三人でアイスを買って食べ歩きをした。
「ありがとう。またね」
そして帰路につく。そんな些細でありふれた日常を過ごすためだけにわたしはここにいる。いや、正しくはここまで来た。
よく一緒にいる三人。気づけば三人セット。仲の良さそうな三人。もう一つだけ違うことがあった。それはわたしの制服だけ色が違うということ。何の意地を張って違う色に袖を通したのか。たった一度の冒した過ちがここまで苦しめるものだなんて、三年前のわたしは知らなかった。
嘘も貫けば嘘じゃなくなる? 何をバカなことを。笑ってしまう。
大抵の嘘は嘘のまま終わってしまうものだ。
わたしはあと何回、こんなバカげた日常を繰り返すのだろう。そんなことを思いながら精一杯の笑顔を貼り付けて二人の乗る電車を見送った。
わたしの通う高校は県内でも有数の進学校だった。二人の通う総北高校とは最寄駅が隣だ。下手に簡単に移動できてしまう距離なだけに、こうしてバカげていると思いながらも通ってしまう。交通費もタダではないから歩くことも少なくない。電車のタイミングが悪いことだってしょっちゅうだ。
そこまでして通う理由。
それはわたしが裕介くんを好きだからだ。
二人に会いたいからここまで来ているんじゃない。わたしが会いたいのは裕介くんだけだ。
それなのに裕介くんだけに「会おう」と言えないのは、わたしの心が臆病だからに他ならない。
「今度紗南ちゃんたちがこっちに越してくるそうよ」
そう母に告げられたのは中学三年生の時の春だった。夏休みの間に越してきて二学期から新しい学校に通うとのこと。こんな中途半端な時期に? と思ったが、それは些細な問題であって、そんなことよりも紗南が近くに来てくれることの方が素直に嬉しかったのを覚えている。親戚の中に同姓で同い年がいるというのは貴重な存在だった。それが今までは遠く離れていて年に数回しか会えなかったのが、今度から気軽に会えるようになるんだ。嬉しくないはずがない。
そしてようやく待ちに待った夏休みを迎え、紗南たち一家が引っ越してきた。
「裕介くん、彼女がこの前話したわたしのいとこの紗南」
「……ショ」
「紗南、彼はわたしの隣の家に住む幼馴染の巻島裕介くん」
「はじめまして」
二人を引き合わせたのはわたしだった。わたしは裕介くんと小さい頃からよく一緒に遊んでいて、その輪の中に紗南が入るのは当然だと思っていた。それが後になってこんなに後悔することになるなんて。未来を知ることができていたなら、絶対そんなことしなかった。ただこの時のわたしはまだ、自分にとって裕介くんがどういう存在なのかに気づくことができていなかった。
皮肉なことにそれに気づかされたのは紗南がいたからだった。季節は彩りの秋に移り変わり、いい加減志望校を確定しなければならない時期のことだった。紗南から「あたし、裕介と同じ高校を受けることにしたから」と告げられた。その時に感じたどうしようもないもどかしさが恋だと気がついたのはそれから間もなくのことだった。わたしはすでに今の学校を受験することを決めていたし、今更わたしも二人と同じ学校を受験するなんて言い出せるわけもなく。そのまま受験シーズンを迎え、それぞれがそれぞれの高校の合格を手にした。
ねぇ、いつから?
いつから二人はそんなに仲良くなっていたの?
紗南がいつから裕介くんのことを「裕介」と呼ぶようになったのか知らない。裕介くんが総北を受験するということも、紗南から同じ高校を受験すると聞かされた時に初めて知った。
家が隣なのはわたしで、小さい頃から一緒にいるのもわたしのはずなのに、気がついたら紗南の方が裕介くんと一緒に過ごす時間が長くなっていた。わたしの定位置も裕介くんの隣から裕介くんと紗南が並んで歩く半歩後ろに降格していた。
わたしは乱れた心を整えるかのように視線を上げた。
車内の広告の文字を無意味に追う。住宅ローン相談窓口の広告だ。わざわざ目を通さなくても内容は知っている。ここへ来る度に見ているのだから当たり前だ。
わたしが裕介くんにいまひとつ一歩踏み出せない理由。それはただ臆病なだけではない。他人となかなか打ち解けられないあの裕介くんが、紗南とは最初から馬が合っていた。
「ゆうすけー」と無邪気に駆け寄る紗南。それを満更でもなさそうに受けとめる裕介くん。そんな二人を見てどうやって一歩前に進めというの? たとえ望んだ形でなかったとしても、こうして普通に会える関係を崩すくらいならこのままでいい。
そしてわたしは今日も一人で塾に行く。一瞬でも二人のことを思考から排除するために、何かに憑りつかれたかのように勉強に没頭する。それ以外の術をわたしは知らない。
※
数日後のある日の夜、わたしは自室の机に向かっていた。目の前には数学の参考書とノート。カリカリとシャーペンを走らせ数式を並べていく。まだ少し生ぬるいけどそれでも久しぶりに冷房がなくても過ごせる夜だった。
数式を解いて何だこれは? と言いたくなるような変な形の図形を描いたところで電話が鳴った。
夜の静寂に激しく主張するバイブレーションに手を伸ばした。発信者の名前を見て思わず視線は窓の外を向いた。
「……もしもし」
『あーか。悪いな。こんな時間に』
確かに時計の針はもう間もなく二十二時を指そうとしている。だけどそんな時間云々のことよりも裕介くんから電話がくること自体が珍しい。
「どうしたの?」
『一応、に伝えておきたいことがあるショ』
「伝えたいこと?」
妙な胸騒ぎがした。これはいい話じゃないと直感が告げている。
『オレ、兄貴のところに行くショ』
「えっ……」
状況を呑み込むのに少し時間がかかった。お兄さんのところ? 裕介くんのお兄さんが今いるところはイギリス。……イギリス!?
「いつから?」
『夏休みが終わる前には。九月からあっちの大学に通うショ。高校の単位は前倒しで取った』
衝撃的すぎて言葉にならなかった。確かにインターハイが終わってから裕介くんがめちゃくちゃ勉強を頑張っていたのは知ってる。知ってはいたけど、それはてっきりいい大学を目指しているからだと思っていた。もちろん日本の大学だ。まさか海外の大学が視野に入っているだなんて微塵にも思ってなかった。
「それはまた急な話だね」
『ワリィ』
そんな謝らないで欲しい。何でもっと早く話してくれなかったの? とか、相談してくれたらよかったのに。とか、喉まで出かかったけどその言葉は呑み込んだ。知ってる。わたしと裕介くんはそんな間柄じゃない。今教えてくれただけでもラッキーな方だ。
電話を切ってからもわたしは放心していた。今日はもう勉強はできそうにない。ノートの上に描かれた変な形の図形を見つめながら、手にしていたシャーペンを机の上に転がした。正方形の四辺を内側に歪ませたような図形。その名もアステロイド。今のわたしの心にぴったりな歪さだ。
今日は八月二十三日。夏休みが明ける前に発つということは、もう残りは一週間もない。
その時、わたしは何かに駆り立てられるかのようにもう一度携帯に手を伸ばした。掛ける先は裕介くんではない。
『どうしたの? ちゃん』
三コール目で出た紗南の声は少し眠たそうだった。だがそんなこと構いやしない。
「ねぇ紗南、裕介くんがイギリスに行くって話、知ってた?」
『えっ、イギリス!?』
そうか。やっぱり知らなかったか。そもそも紗南は裕介くんにお兄さんがいてそのお兄さんがイギリスにいるってことも知らないはずだ。
だけどそんなことを紗南に話して何になる? それで二人の関係が破綻するわけでもないのに。
ただわたしは、あなたより彼のことを知っているのはわたしの方だと主張したいだけ。紗南よりも優位に立っているんだと自己受容を満たしたいだけのわたしのエゴだ。
「二学期が始まる前には行っちゃうんだって。さっき電話で言われて、びっくりしちゃった」
それで居ても立ってもいられななくなって紗南に電話しちゃったの。そんなニュアンスで話を進める。
紗南は電話の向こうで明らかに動揺している。わたしは心の中でほくそ笑んだ。
わたしって最低な女だな。嫉妬心は恐ろしく人を醜くさせるものだ。
翌日の朝。その日もわたしは学校へ勉強をしに行くために朝早く家を出た。
門扉を開けて右に曲がろうとすると、左側から声を掛けられた。
「ちゃん」
「え、紗南?」
振り向くとそこには制服姿の紗南がいた。
「今日はあたしも学校で勉強しようと思って。だから一緒に行こ」
紗南はあまり学校に行って勉強はしない。補習はちょいちょいあるようだけど、わたしの学校に比べればかなり少ない。どういう風の吹き回しだろう。いずれにしても今まで家の前で待ってて一緒に行こうなんて言われたことはない。
昨夜の電話を受けての流れだということはわかる。だけど電話の内容どころか裕介くんの話題にも触れることなく、わたしたちは駅に着き、電車に乗った。
ただの気まぐれだったのかな。そう思いながらわたしの降りる駅の一つ手前まで来た時だった。
「あたし、裕介に告白するね」
窓から流れる景色を眺めながら唐突に宣戦布告された。呆気にとられて何も言えずにいたわたしに向けてくる紗南の瞳は、「あたし負けないから」と告げているようだった。
「何でわざわざそんなことわたしに言うの?」
「ちゃんには言わないといけない気がしたから」
駅のホームに降り立ち、紗南を乗せた電車を見送る。つくづく嫉妬心はろくなものを生み出さないものだと思う。
もうわたしがこの駅の先に行くことはきっとない。いつまで続けるのだろうと思っていたバカげた日常は、呆気なく終止符を打たれて幕を下ろした。
わたしは何がしたかったんだろう。自己受容を満たそうとして起こした行動は、結局自分を苦しめるものでしかなかった。
紗南から思いを告げられた裕介くんがどんな反応を示すのか、普段の二人を見ていれば自ずと答えが見えてくる。少なくとも悪い方向へ転がるとは考えられなかった。
その日はどんなに勉強をしても少しも頭に入ってこなかったのは言うまでもない。
夏の陽も沈み、辺りが暗くなった頃、わたしは家路についていた。まだほんのり明るさを残しているけど、あと三十分もすれば完全に闇と化すだろう。
とぼとぼと家の前まで来ると人影が差した。
「ヨォ」
「びっくりした。裕介くんか」
細くて長い不気味な影に不審者と思いきや、渦中の裕介くんだった。
「こんなところで何してるの?」
「お前を待っていたっショ。もうすぐ帰ってくるだろうって」
親指を立てて背中にあるわたしの家を指す仕草は、きっと一度玄関のチャイムを鳴らしてわたしの母親あたりにそう言われたのだろう。
わたしは辺りをキョロキョロ見渡して違和感を覚えた。
「紗南は?」
「何であいつの名前が出てくるショ」
「え、だって……」
その先の言葉を告げるのは憚れて思わず口が噤んだ。すると次に聞こえてきたのは裕介くんの深いため息だった。
「断ったっショ」
「えっ、何で? ウソでしょ?」
「お前ナァ……勝手に暴走すんなっショ。オレの段取りがメチャクチャだ」
裕介くんは困った顔して長い髪をかき上げている。予期せぬ展開にわたしの心は追いつかない。文字通り、瞬きすら忘れて動けずにいた。
「お前の考えてることは大体わかる。何年一緒に過ごしてきたと思ってるショ」
近づいてきた裕介くんはわたしの頭の上にぼすっと手のひらを乗せた。ちょっと痛い。
「オレには待ってろとか待ってて欲しいとかそんな気の利いた言葉は言えないショ。けど、オレが帰ってくるのはここだけだ」
じわじわと目の前が涙で霞んできた。これは夢? いや違う。頭の上の重さがこれは現実なんだと切実に伝えてくれる。
今まで抱えてきた胸のつっかえがようやく外れた瞬間だった。
「不満かもしれねェけど」という裕介くんの呟きに、わたしは震えた声で「十分だよ」と返した。
今が夜でよかった。
こんな情けない顔、好きな人に見られたくないもの。
季節外れのパンジー
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高校の時、変な図描かされたよなぁ。何だっけあいつの名前……ステロイド? いや違う。それは薬だ。あー……あっ、思い出した! アステロイドだ!! 数学Vの微積だったと思います。当時も理解していた記憶は全くありませんが今はもっとわかりません。インテグラルって言葉しか思い出せません。
自己受容とかエゴとか普段使わない言葉を使ったので、正しい意味合いで使えているのか謎です。一応調べながら使いましたが、何か違うんじゃね? と思ってもスルーしてください。
2015.11.20