金曜日の5時限目という一番かったるい時間に行われる微分積分学。所属学科関係なく工学部全員が取る必修科目のため、いわゆる階段教室と呼ばれる大きな講義室で行われる。時間が時間なだけにやる気のない学生は自主休講する者も少なくない。単位に響くような提出物やテストがなく、出席率にも余裕がある者は特にそれが顕著だ。
も例外ではなく、自主休講して帰りたい衝動に駆られていたが、それでも気だるい体を引きずって階段教室までやってきた。講義開始まであと5分。だらしなく机の上に頭(こうべ)を垂れていると、視線の先にと同じかそれ以上に面倒くさそうな顔した男が、椅子一つ分空けての隣に座るのが見えた。
「まじめだね」
「オメェもな」
トクンとひとつ、胸が鳴る。メンドクサイと言いつつも必ず講義は受けに来る。いい加減そうに見えるだけで根はまじめ。そんな彼に興味を持ち始めるのに時間はかからなかった。関わるようになってからは意外と面倒見がいいことを新たに知った。知れば知るほどその魅力に取りつかれ、の心をいとも簡単にからめとっていった。
チャイムが鳴り、講義が始まった。拡声器を使った教授の声が教室中に響き渡る。少し耳に障るけど、へたに狭い教室で地声で話されるよりは全然いい。ちょっとくらい無駄話をしても拡声器の声がそれをかき消してくれるのだから。
「荒北」
「……」
「荒北、荒北ぁ」
「っせ。集中しろ。つーか、テメェはいい加減体起こせ」
自分だって大して集中してないくせに。さっきからつまらなさそうに頬杖を突いて、シャーペンをくるくると回しているだけじゃないか。ノートに何かを書く素振りを一向に見せやしない。
は荒北の手をじっと見つめた。相変わらず細くて長い指。骨と皮しかないみたい。その細い指と指の間に自分の指が絡まるのを想像しては一人、鼓動を早くした。
好きだなぁ。たまらなく好きだ。こんな魅力に溢れた男、そうそういるもんじゃない。荒北に関わった女はみんな落ちるんじゃないかってくらい、荒北靖友という男には恋焦がれて仕方なかった。実際、ライバルがちらほらいることも承知している。
彼女の一人や二人、いてもおかしくなさそうなのに、荒北には彼女がいなかった。意図的に作らないようにしているのかもしれない。それか、単に恋愛に興味がないだけか……。
偶然にも荒北が女子から告白されている現場に遭遇してしまったことがあった。とは言っても実際に見たわけではなく、一人で教室に残っていたら廊下から荒北と女の声が聞こえてきただけなのだけど。いくら時間が遅いからとはいえ、場所を考えて告白しろよと思ったけど、それ以上に荒北が告白されているという事実に頭が真っ白になった。荒北は何て答えるんだろう。破裂しそうなほどうるさい自分の心臓の音を聞きながら、盗み聞きなんて最低だなと思いながらも息を潜め大きく耳を立てた。
「ワリィ。誰ともつき合う気ィねーんだわ」
その言葉に安堵したのは言うまでもない。だけどの動機はしばらく収まることはなかった。ここが工学部で女子が少ないのは不幸中の幸いだ。これがもし、女子の比率が高い学部だったら、荒北に恋慕の心を持つ者はもっといただろう。
そんな荒北だけど、はほんの少しだけ他の女子よりも特別に見てもらえているんじゃないかと思っていた。今だってそうだ。他にもたくさん席は空いているのに、この講義では必ずの隣に座る。単なる自惚れかもしれないけれど、わずかでも幸せな夢が見られるならそれでも構わない。そう思っていたはずなのに、欲は容赦なく膨らんでいくもので、荒北に触れてみたいと思う気持ちは日に日に大きくなる一方だった。
鞄からはみ出ている携帯がチカチカと光りだした。は体を起こして携帯に手を伸ばす。サークル仲間からのメールだとわかると、気が重たくなった。中身を見なくても何の内容かおおよその予測がつく。
横目でちらっと荒北を盗み見て、は携帯を鞄に放り投げた。今日は疲れているのかなぁ。いつもだったらこんなこと考えもしないのに、ほんの少し、いたずらな心が働いて荒北を試してみたくなった。
「荒北ぁ」
「……」
「わたし、今度合コン行くんだ」
「……ハァア!?」
声がでかすぎだよバカ。そんなことよりも、予想外な荒北の反応には驚いた。近くに座っている学生も驚いたようで、前の席の人は肩をびくっとさせていた。一瞬、お互い目を見開いた状態で見つめあったあと、荒北は舌打ちをし、苦虫を噛み潰したような顔をして正面に向き直った。
今の反応は何だったんだろう。期待以上の反応を見せられて、頭の整理が追いつかない。何に対してそんなに驚いたんだろう。都合のいい解釈ばかりしてしまう。期待……していいのだろうか。
90分の講義が終わり、教室に喧噪感が戻ってきた。も教科書をしまって、外へ出ていく学生たちに続く。廊下に出たところで、後ろから荒北に呼び止められた。
「帰ンのか?」
「うん。サークルに少し顔を出してからね」
「……行くな」
「え?」
「合コンなンか行くなつってんだっ」
ただでさえ細い目を極限まで細めて合コンに行くなと言ってきた荒北は、強引にの腕を掴んで歩きだした。
「え……あ、ちょっと何!?」
こっちの困惑もお構いなしに荒北はずんずんと進んでいく。同じ教室から出てきた学生たちの好奇な視線が痛くて、みるみるうちに顔が熱くなっていった。そして捕まれている腕もじわじわと熱を帯びていく。
「急にどうしたの!? 荒北。腕痛いよ」
「せっ。テメェは黙ってオレとつき合ってろっ!!!」
その瞬間、心臓が止まりそうなほど息が詰まった。え、待って。それってどういう意味? めちゃくちゃなシチュエーションだけど、これって愛の告白? そうであるならば、願ってもないことだけど……。いろんな疑問が頭の中を駆けめぐるけど、言葉を発する余裕なんてどこにもなかった。ただただ、必死に息をしながら強引に引っ張る荒北について行くだけで精一杯だった。
必ず隣に座るキミ
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私も工学部出身なので、自分の大学ではこうだったよなぁというのを思い出しながら書いてみました。うちの大学では1年の前期は学部共通の科目が多かったような気がします。あれからだいぶ時が流れていて、記憶が薄れてきてしまっていますが…………。
2014.10.06