「、イヌー」
階下から聞こえてくる母親のいろいろ省略されたデカい声。おそらく省略せずに言うと「、犬の散歩行ってきて」になるのだろう。
外は東京にしては珍しく、今にも降り出しそうな空模様。降るとしたらきっと雨ではなく雪になるのは、今にも凍えそうな寒さから容易に想像できる。
何が楽しくて年明け早々、犬畜生のために凍えなければならないのか。冗談じゃない。ベッドの中でぬくぬくと漫画を読む。これぞ正月の醍醐味というやつだろう。
そんな都合の良い言い訳を頭の中で呟き、母親の声は聞こえなかったフリをして私は漫画のページを捲った。
「、早くしないと降ってくるわよー」
……聞こえない。聞こえない。今イイところなんだから。
ごろんと寝返りを打って、更にページを捲った時だった。けたたましい音を立てて私の部屋のドアが開かれ、母親の怒鳴り声が聞こえてきたのは。
「ッ!!」
「ぅわあっ」
トランポリン級に心臓が跳ねた私は、勢いよく起き上がってしまった。
「聞こえてるのなら返事くらいしなさいっ。それから散歩っ。お正月からゴロゴロするんじゃないっ」
そして部屋のど真ん中に犬のリードを投げつけられる。かわいいピンクの花柄のリード。ペットショップで犬を買った時に一緒に購入したそれは、ところどころ皮が剥げてきていて、なかなか年季の入った品になっている。
私は渋々とベッドから抜け出してリードを拾い上げた。
まったくどこの誰だよ。犬を飼いたいとか言い出したやつは? 私だ。このリードを選んだのも私だ。
「あんたが欲しいって言って買った犬なんだから、責任くらい持ちなさい」
「……ん」
たった一音でしか返事をしなかったのは、せめてもの反抗心をぶつけるためだ。
めんどくさいと思いつつも、結局のところリードを持って現れた私の姿を見てはしゃぐ犬を目の前にすれば、かわいいなこのやろう。と思ってしまうあたり、やっぱり私はこの犬が好きなのだ。
……おっと、犬で済ましてきてしまったが、この子にはちゃんと「さくら」という名前があることは忘れてはいけない。
「さっむ」
腰まで隠れるユ○クロのダウンに手袋、ニット帽、ロングブーツ、耳あてにマフラーとかなりモコモコ重厚装備をしてきたというのに、外の寒さは想像の遥か上をいっていた。
さっさと終わらせて帰ろう。今日はショートコースだ。
外に出るのがそんなに嬉しいのかというくらい、はしゃぐさくらに引っ張られるかたちで私は歩き出した。
さくらは歩き慣れたコースを熟知してるようで、リードをぐいぐい引っ張りながらいつもの道のりを進んでいく。でもごめんね。今日はそっちの道じゃないんだ。私は角を曲がろうとしたさくらを無理やり真っ直ぐ歩かせるように軌道修正させた。形勢は逆転。今度は私がさくらを先導する。
この先にある公園で一休みして(時間を稼いで)、帰ろう。そんなコースを思い浮かべながら歩を進めていくと、正面から次第に大きくなっていく細長いシルエットが見えてきた。
あのシルエット、私、知ってる気がする。
「あ、青峰」
私の予感はビンゴ。細長いシルエットはよく見知ったクラスメイトだった。
こんなところで会えるだなんて。こんな冬休み真っただ中の何の変哲もない道で。今日ばかりは私の動かない尻を叩いてくれた母親に感謝しなければならなそうだ。そしてショートコースを選んだ私には最高の勲章を与えよう。
「か。……って、何だよそのカッコは。装備厚すぎて一瞬誰だかわからんかったぞ」
そういう青峰の装備は些か薄すぎやしませんか? 青峰もダウンを着ているが、それはのと違って腰まで隠れないショートタイプだ。背の高い青峰は防寒着から露出している面積の方が広い。おまけに靴は足首の寒いスニーカーだ。辛うじてマフラーが目に入るが、青峰のピンピンした様子から無くてもやっていけそうに見える。
私よりも体温が高いのだろう。素直に羨ましい。
「んな今にも死にそうなツラして何やってんだ?」
「見ての通り、犬の散歩よ。青峰こそお正月から一人で何ほっつき歩いてるのよ。寂しいヤツね」
「コンビニに行くだけだ」
「へぇ。奇遇だね。私もこれからコンビニ寄って帰るところだったのよ」
出まかせにそう言うと、青峰は怪訝な顔をした。そりゃそうだ。おそらく青峰が行こうとしているコンビニは、さっきさくらが進もうとしたいつものお散歩コースに位置しているのだから。つまり私からしてみれば、ここでUターンする必要が出てくる。言動が伴っていないことはさておいて、私は青峰と並んで歩き出した。
青峰とは高校に上がってから知り合ったのだが、最寄りのコンビニが同じになるくらいご近所さんだった。青峰が公立の中学に通っていれば、きっとそこが私たちの出逢いの場になっていたのだろう。でも青峰が通っていたのは少し離れた私立の中学。バスケで有名らしいが、狭い世界で生きていた私は高校生になって初めて近所にそんなすごい同世代がいることを知った。
そんな風に家が近いことがきっかけで、青峰とはまぁそこそこ仲良くなった。……と私は勝手に思っている。
青峰と最後に会ったのは冬休みの少し前。十二月の二十日頃だったと思う。終業式の日はウィンターカップの試合と被ったため、バスケ部はこぞって公欠だった。その時に見た青峰の様子と比べると今日の青峰は何だか……、
「青峰、何かあった?」
雰囲気が違うような気がする。
「? 何もねーよ」
「嘘。いつもと何か違うもん。……あ、そうか。試合に負けたから」
「ばっ、ちげーよ!」
有力な優勝候補とさえ謳われていたうちの学校が初戦で敗退したと教えてくれたのは、これまた母親だったりする。その時は「へぇ」くらいにしか思わなかったけど、よく考えてみたらこの青峰が負けたのだ。ありあまる才能に悩まされて、勝つことが当たり前になっていた青峰が。
「今、認めたね」
「ハァア?!」
「そうやって向きになるってことは、認めたと同義でしょ」
青峰はきっと、自分の中では認めているけど、誰かに指摘されるのはまだ嫌なのだろう。苦虫を噛み潰したみたいな顔をしている。
もしかしたら負けた相手が重要だったのかもしれない。……ねぇ、青峰はどんな風に感じたの? どんな気持ちだった? 相手はどんな人? 私は青峰の学外の交友関係を全く知らない。仲が良いといってもそこまで親しいわけではない。ただひたすら、想像を巡らせる他、青峰の感情に触れる術を知らない。
さくらは先ほどとは打って変わって、おとなしく私に寄り添って歩いている。もしかしたら私の気持ちを察して遠慮してくれているのかもしれない。家に帰ったらビーフジャーキーをプレゼントして差し上げよう。
そうこうしているうちに、私たちはコンビニの前にたどり着いていた。私はさくらのリードをぎゅっと握りしめて、その場で立ち止まった。
「入らねーのかよ?」
「私、財布持ってない。ここで待ってる」
「……何しに来たんだよ」
……そこは察してよ。
コンビニの自動ドアに吸い込まれていく青峰の背中を見送りながら、私は空を仰いだ。低層を漂うどんよりした雲。今晩にでも本格的に一雨か一雪がきそうだ。
ふと足元を見れば、さくらが心配そうにこちらを見つめている目と合う。あわよくば散歩をとんずらしようとさえ思っていたとんでもないご主人だというのに、キミは心配してくれるんだな。私はさくらの頭をわしゃわしゃーっと撫で、それから大きく深呼吸した。
こうなったらご主人様のかっこいいところを見せてあげないとね。
やがて青峰は身体のサイズに合わない小さなビニル袋をぶら下げて戻ってきた。
「何買ったの?」
「墨汁」
思わず吹き出しそうになったのは秘密にしておこう。推測するに、青峰は宿題の書初めをしようとした。→書道ケースを開ける。→墨汁の残りが少ないことに気づく。→とりあえず書けるところまで書く。→やっぱり足りなくなった。→仕方なく買いに来た。ってところなのだろう。やばい。私もまだ書初めやってないや。
「青峰が真面目に書初めとか、笑っちゃう」
やっぱり心境の変化かな。
私はちゃんと知ってるよ。青峰はその図体のデカさに似合わず、繊細で折れやすい心を持ってるってこと。それを支えたいと思ってしまうのはおこがましいことなのかな。教室での青峰しか知らない私が。
でも、ここで足踏みをしていたら、永遠に教室での青峰しか知らないまま私の高校生活が終わってしまうのもまた事実なのだろう。じゃあ、いつ踏み出す? ……今でしょ!!
青峰と別れるT字路はもう目の前だ。
「青峰!!」
「んあ?」
青峰は私の音量のある声に驚き振り向いた。
「一生のお願いがあるんだけど、」
「やだ」
「何で!?」
「一生のお願いは重すぎんだろ。聞きたかねーよ」
「……じゃあ、ただのお願いにする」
出鼻くじかれて私の心が先に折れてしまいそうになったけど、とりあえず態勢を立て直す。言葉は選ばないといけない。
「私、青峰のことを支えたいと思ってるんだけど、どうかな? ダメ、かな……」
「……いや、無理だろ」
青峰は私の頭のてっぺんからつま先まで見回してからそう答えた。
何か、ものすごく勘違いされた気がする。
「身体じゃなくて心の方ね! 私は青峰の心の支えになりたいの!!」
今度こそ青峰は驚いて、困ったような表情を浮かべた。
なかなか言葉が返ってこなくて沈黙が続く。これはダメなパターンかな。冬休み明けたら学校行きづらくなるなぁ。しばらくは耐えて、二年生に上がる時のクラス替えで青峰と違うクラスになることを祈るしかない。
そこまで覚悟を決めた時、青峰の深いため息が聞こえてきた。これはいよいよもってダメかもしれない。
「今このタイミングでそれを言うか……?」
…………ん?
おそるおそる視線を上にもっていくと、青峰が困った表情を浮かべて後頭部をポリポリ掻いているのが見えた。
「じゃあ、いつ言えばよかった?」
「わかんね」
それから後頭部にあった手が私の頭の上にぼすっと乗ってきた。重い。痛い。ニット帽と耳あてが邪魔だ。
「誰かに支えて欲しいとか考えたことねーけど、仮に誰かが支えてくれるのなら、オレはお前がいい」
カァーッと一気に熱が顔に集中してくるのが嫌というほどわかった。唯一、外気に触れていた素肌がどんどん熱くなっていく。もうニット帽も耳あてもいらないくらい私の首から上はホットだ。
期待以上なんてもんじゃないくらいの言葉を受けて、私はエサを欲しがる金魚みたいに口をパクパクさせることしかできなかった。
「すげーアホ面だな。オイ」
誰のせいよ。でも、嬉しい。
「青峰、ずるい」
「先に仕掛けてきたのはお前だろ」
最後、青峰は私の頭をぼすんぼすんとしてから去っていった。「新学期にな」という言葉を残して。いずれにしても、新学期はちょっと学校に行きづらい。でも、二年生になってもまた青峰と同じクラスになれたらいいなと思えるようになった。
……できれば去り際はぼすんぼすんではなく、ポンポンが良かったな。
私は先ほどまで青峰の手が乗っていた自分の頭を撫でてみた。
しばらくの間、空気を読んで気配を消していたさくらは、青峰がいなくなった途端にかつてないほど、はしゃぎ始めた。……何なのこの犬。何かムカつく。ちょっと意地悪したくなったけど、帰宅した私はちゃんとさくらにビーフジャーキーをプレゼントして差し上げた。
一年の始まりの願い事
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季節が真逆なのはスルーしてください。
青峰くんが書初めをしている姿を思い浮かべて、本当に笑いたくなりました。似合わない。似合わなさすぎる。それに青峰くんは用紙全部書ききることはないと思います。とりあえず書けたらそこでお終い。できれば一枚で終わらせたいところ。きっと今回は一枚書ききれるかってくらいの墨汁しか残っていなかったのでしょう。ぶちゅーという音を立てながら硯に墨汁を流して無理やり書いた一枚目がまさかの失敗。仕方なく買い出しに行く。きっとそんなところ。
ちなみに私の書初めは人より細い筆を使っていたはずなのに、いつも人より太い書体で仕上がっていました。不器用なだけです。でも校内で賞は取れていたのですよ。これでも。
2016.06.16