は荒い息を上げ、路地を駆け抜けていた。肺は千切れそうなほどに痛く、足もとうに限界を迎えている。それでも懸命に走るのは、後ろから追いかけてくるかつての“恋人”に追いつかれたくないからだ。

「別れて欲しいの」
 そう告げたとたん、みるみるうちに険しくなっていく彼の眼を思い出すだけでも身震いする。
 つき合い始めてから彼の言動がおかしいことに気づき、取り返しがつかなくなる前にと、別れを切り出した結果が”平手打ちされる”だった。叩かれた瞬間はパニックを起こして動けなくなり、二度目に手を振り上げられた時、我に返って走り出した。
 走りながら、やっぱり自分の判断は間違っていなかったんだと思ったのと同時に、別れを切り出す場所を人気のない公園にしたことをひどく後悔した。誰かに聞かれるのが嫌だなんて思わず、安全をとってもっと人の目があるカフェや街中を選ぶべきだった。
 早く大通りへ。もはや見覚えのない景色の中を懸命に走るものの、人気のない道が永遠と続く。適当に角を曲がり、なかなかの坂道に直面した時は、神さまに嫌われているのかとさえ思った。
 とはいえ、足を止めるわけにはいかない。は無我夢中で坂道を駆け上がった。しかし、やはり神さまには嫌われていたのかもしれない。
「あっ」
 踏み込みが甘かったのか、前方につんのめり両手をついて倒れてしまった。早く立ち上がらないと、と思うのに、一度止まってしまった足はまったくいうことをきいてくれない。これ以上ないほど息も上がっている。そんな時だった。

「大丈夫ですか?」
 誰もいないと思っていたその場所に誰かがいた。顔をゆっくり上げていくと、思わず息を呑んでしまいそうなほどの美形な男性が立っていた。
 男性はの顔を見るなり、眉をひそめた。叩かれた痕を見て訝しんだのかもしれない。
「おいっ、
 後ろから迫ってくる声にはっとして振り返ると、すでにかつての恋人は坂道を登り始めていた。
 まずい。捕まる。
 焦りが頂点に達したは最後の力を振り絞って立ち上がろうとした。だが、ガクッと膝から崩れて立ち上がれない。もう無理だ。また殴られる……。そう思った瞬間。腕を強い力に引かれて身体が上がった。そこへ拳を構えて突撃してくる恋人。気づけば声をかけてくれた男性がかばうようにの前に立ち、迫りくる拳を華麗にかわしていた。それどころか、何をしたのかさっぱりわからなかったが、いつの間にか恋人のほうが両手をついて地面に伏していた。
「んだ、てめぇは」
「通りすがりの者だよ」
「はぁ!? カンケーねぇなら首突っ込んでくんな」
「そうはいかない。見るからに好ましい状況ではないということは明らかだからね」
「……っ」
 噛みつくようにどなる恋人に、冷やかな声を発する男性。男性の顔を見上げた恋人は、一瞬、怯むような表情を見せた。男性はのほうに背中を向けているため、どんな表情をしているのかはわからなかった。
「何? 何かの騒ぎ?」
 そうこうしているうちにポツポツと野次馬が現れ始めた。
「ちっ」
 さすがに状況が悪くなったと判断したのか、恋人は舌打ちすると男性にひと睨み利かせてから去っていった。

 はほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
 この男性に出逢わず、あのまま捕まってまた殴られていたらと思うとぞっとする。は丁寧にお礼を言って頭を下げた。
「本当に、助かりました。なんとお礼を言ったらいいのやら」
「状況が状況だからね。いきさつを詳しく聞きたいところだが、まずは手当てが必要そうだね」
「痛っ」
 男性の手が伸びてきたかと思うと、頬に触れられて痛みが走った。
「相当強く叩かれたんだね。切れているよ」
 うわ、きれいだ……。
 は改めて真正面から男性の顔を見て、思わず見惚れてしまった。場違いだとわかっていても、そう思わずにいられないほど、男性の顔はきれいだった。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、なんでもありません」
「とりあえず、ついてきて」
 いましがた男に追いかけられていたばかりだというのに、今度は見知らぬ男についていくだなんて。馬鹿だと鼻で笑われても仕方ない。それでも男性の背中を追いかけて足は自然と動いてしまった。
 男性は歩きながらスマホを取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。

「桃井か。いまどこにいる?」
 ……モモイさん? 当たり前だけど、存じ上げない名前だ。
「ああ。悪いがいまからそちらに向かう。十五分ほどで着くから、表に出て待っていて欲しい」
 どうやらいまからそのモモイさん宅に連れていかれるらしいのだが、そんな急に大丈夫なのだろか。男性は「頼んだよ」と一言残して電話を切ってしまった。
 なんだか不穏な空気に不安を募らせていると、ふいに男性がこちらに振り返って見てきた。
「そういえばまだ自己紹介をしていなかったね。俺は赤司征十郎というんだ」
「あ、私は、、です……」
さん、ね。さぁ行こう。そんなに身構えなくてもいいよ。いまから向かうのは女性の家だから」
「はぁ」
 どこへ向かおうと身構えないわけけないのだが、赤司はにこやかに笑むとの手を引いてさっさと歩き出してしまった。見知らぬ人なに嫌な気がしないのが不思議だった。

 それからほどなくして入り込んだマンションの敷地には、一人の女性が立っていた。見るからにぷりぷりしている様子だが、本当に大丈夫なのだろうか。
「あ、赤司くん!」
 ほら、両手を腰に当ててお決まりのお怒りポーズをとっているではないか……。
「やぁ、桃井。急に悪かったね」
「本当だよ。だいたい、その子はなぁに? 赤司くんの彼女? 怪我してるみたいだけど」
 矢継ぎ早に質問を投げかけるモモイさんとやらは、見るからにかわいい。むしろあなたのほうこそ彼の彼女ではないんですか? と突っ込みたい気分だった。
「知らない人だよ。ただ、元恋人らしき人に殴られた様子だったから放っておけずに連れてきたんだ。悪いが、手当てしてやってくれないか」
 は言葉に詰まってその場で俯いた。詳しいことは何一つ話していないはずなのに、アレが元恋人だと赤司に見抜かれていたことが急に恥ずかしくなったのだ。
 そんなをじっと見ていた桃井は、「ふう」と息を吐くと、「いらっしゃい」ととびきりかわいい顔しての手を取った。
「あ、赤司くんは玄関までだからねっ」
 ついてこようとする赤司にビシッと桃井が言い放つと、赤司は「わかってるよ」と苦笑を漏らした。

「恋人に殴られたって、本当?」
 リビングに通してもらい、傷まわりを消毒してもらっていると桃井がふいに訊いてきた。
「はい。前から怪しいなーと思っていた彼で、別れを切り出したらガツンと」
 隠すことでもないので、素直にそう答えると、桃井は「最低ね」と顔を歪ませた。
 それにしても桃井の手当てする手際がやたらいいことに驚かされる。
「あの、桃井さんは医療関係の方なんですか?」
「え?」
「すごくお上手だから……」
「そんな大げさに言ってもらうほどのことでもないよ〜」桃井は空いている左手をぶんぶん振りながら笑った。「私、中学高校の頃はバスケ部のマネージャーをやっていてね。よく選手の手当てもしてたのよ。赤司くんは中学の時に一緒だったの。ああ見えて赤司くん、学生の頃はすごいプレイヤーだったのよ」
「へぇ」
 あの細身に見える赤司が。もしや脱ぐと筋肉ムキムキなのでは? とあらぬ想像をめぐらせてしまっては桃井にバレないように小さく頭を振った。
「はい、おしまい。患部が顔だから湿布を貼るのは控えたけど、おうちに帰ったらちゃんと冷やしてあげてね」
「ありがとうございます」
 怪我の痛みはすっかり消え……とまではいかなくとも、赤司や桃井と接することでだいぶ気持ちは軽くなっていた。

 玄関に戻ると、赤司はドアに背を預けて腕を組みながら待っていた。
「お待たせ。赤司くん」
「ああ、ありがとう。……やはり、その痛々しい顔はそう簡単に消えそうにないね」
 赤司にじっと顔を見つめられて、は心臓が口から飛び出しそうになった。いや、厳密に言えば、顔ではなく傷ついている頬を見られていたのだが。
 その様子を桃井が何やらにやにやしながら見ているような気がしたが、きっと気のせいだと頭の隅に追いやった。
「お茶出しもしなくてごめんね」
「いいえ、とんでもないです。手当てしていただいただけでも感謝の気持ちでいっぱいです」
 靴を履きながら、は改めて桃井にお礼を言った。
「また二人で遊びにきて」
「そうだね。俺からも礼を言うよ。ありがとう。桃井」
 また二人でって、そんなにこやかに言われても……。と返す言葉に詰まっていると、あっさりと赤司がなんともいえぬ返事をしていた。

 マンションを出てからはしばらく無言で並んで歩いた。こんな親切な人たちがいるなんて、世の中捨てたもんじゃない。このあと「さようなら」と別れたら、もう二度とこの人たちには会わないのかもしれない。と思ったら、胸に痛みが走った。
さん」
 はっとして顔を上げると、赤司が目の前に立っていた。いつの間にかの足も完全に止まっている。
「俺は誰彼構わず親切にするほど、よくできた人間ではないんだ。だから桃井もあんなふうに言ったんだろう」
 赤司が何を言わんとしてるのか、よくわからなかった。
「つまり、俺はあなたに興味を持ち始めてるってことだ。よかったら、これからも俺と会ってくれないか」
 相手の言ってることが理解できなくて一瞬、時が止まるような錯覚に陥る。という経験をいま初めてした。じわじわと言葉の意味が脳内に浸透してくると、それに比例するかのようにの顔は呆けていった。
「あ、あの……えっと」
「もちろん、無理強いはしない。まずは連絡先を交換することから始めたいんだが、いいかな?」
「……はい」
 もう、どうにでもなってしまえ。あれこれ難しく考えることはやめた。この人を本当に信用していいのかなんてわからないけど、少なくともこの数時間は信じるに値する人だった。それだけでじゅうぶんではないか。
 人間不信になって大事な縁を手放すくらいなら、神さまは私を見捨ててなどいなかったのだと、差し伸べられた手を取るほうが、それこそ神の御加護があるように思う。
 それに何より、自身がまた赤司と会いたいと願っているのだ。
「私からも、よろしくお願いします」
 はバッグからスマホを取り出して微笑んだ。

坂道で



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2020年赤たんで使おうと思っていたお話第二弾です。
2021.01.19