入学式から数日経った早朝のことだった。その日、赤司は某寺の東門を通り、朝練をするべく体育館へ向かっていた。ようやく人とすれ違えるほどの幅しかない敷石の上を歩き向かう。境内には世界遺産にも登録されている五重塔が堂々たる出で立ちでそびえ立ち、桜と見事なコラボレーションを織りなしている。
日本屈指の観光地である京都。特にこの時期は観光客でごった返し、風情もくそもあったものではないのだが、いまは平日の早朝とだけあって人の姿は数えるほどしかなかった。
だからなのだろう。敷石から外れた砂利の上にぽつんと立ち尽くす女子の姿がえらく目立っていた。同じ高校の生徒だということは、その制服姿を見れば一目瞭然。赤司からは背中しか見えない。彼女は五重塔を見上げているように見えたが、その視線はもっと高いところにあるような気がした。
ふいに彼女が振り返り、目が合った。しかし、それも一瞬のこと。赤司は足を止めることなく歩いていたし、彼女も特別気に留めた様子もなく歩き出したからだ。振り返ったらたまたまそこにいた人に目がいっただけ。そんな素振りで肩甲骨のあたりまで伸びる髪をなびかせながら、東門から通りへ出ていった。
それがを初めて見た時のことだった。次に彼女を見たのは、その日の放課後。バスケ部のマネージャー志望なのだと、監督に連れられて体育館へ来たときのことだった。
あれから一年以上が経ち、赤司は僕からオレに変わった。厳密にいえば、元に戻った、なのだが、そもそも初めてが僕だった彼女からしてみたら、変わったという表現のほうが的確だろう。その頃には赤司の中でという存在の好感度は振り切れそうなところまで上がり、それ以上に上がることはあれど、下がることはないに等しかった。
インターハイが終わり、世が夏休みを終えようという頃、練習を終えて部室に戻るとそこにはすでにがいた。練習の終盤あたりから姿が見えないと思っていたが、どうやら先に部室に戻っていたらしい。いまは机に向かって難しい顔をしている。その机の上にはプリントが数枚置かれていた。
「あ、赤司くん、お疲れさま。今日はもうおしまい?」
ドアの開く音に顔を上げたは、表情をわずかに和らげて赤司にねぎらいの声を上げた。
「ああ。はなにをしているんだい?」
そう問うと、スッとの顔がまた険しくなった。
「二学期は学校の行事もテストも多いからさ、いまのうちに練習できなさそうな日とか確認しておこうと思って。進学希望の先輩たちは、模試でも時間取られちゃうし」
そう言ってはトントンと机に置かれているプリントの一枚を指で叩いた。それは年間スケジュールが記されているプリントのようだ。
「赤司くん一人? 他のみんなは?」
「まだ体育館にいるよ。オレは監督と話があるから先に戻ってきた」
「ふうん。相変わらず忙しいのね」
眉尻を下げて気遣うような声を出すは、なにを考えているのか。よくも悪くもは選手と一線を画して奥へは踏み込んでこない。さっぱりしていると言えば聞こえはいいが、言い換えれば淡泊なのだ。
赤司は己のロッカーからタオルを取り出し、汗を拭った。の視線は机の上に戻っている。いまこの空間で赤司と二人きりということをまったく意識していないようだった。
とにかくバスケが大好きでマネージャーを志望したんだというに、まだ僕だった赤司は問うたことがある。なぜ自分がプレイヤーになる道を選ばなかったのかと。その答えはいたってシンプル。「自分が活躍するよりも、一生懸命な人たちが活躍する姿をそばで見てサポートしたいから」と。
正直、意味がわからなかった。自分がプレイする以外の道を考えたことがなかったからだ。そのまんま「意味がわからない」と伝えると、はスッと表情を消して「いろんなかたちの好きがあっていいと思わない? 好きは好きなんだから、それを赤司くんが貶していい理由なんてどこにもないよ」と言い放った。それからつけ足すように「洛山はバスケの強豪校だし、どうせ男目当てで入ったんだろって言ってくる輩もいると思う。だけど、私は私の好きを貫くつもり」と。
その言葉を守るように、は選手と必要以上に親交を深めることはなかった。それが逆に選手の好感を買い、に特別な感情を抱いている者が少なくないことをは知らない。
「」
端的に彼女を指し示す固有名詞を口にすると、は「なに?」と顔を上げた。
「今日は一緒に帰ろう」
「えっ」
あからさまに困った顔をするが面白くて、それでいて気に入らなくて、赤司はずるい一言を添えた。
「オレも二学期のスケジュールについてはと相談したいと思っていたんだ。ここで話してバラバラに帰るより、一緒に話しながら帰ったほうが効率はいいだろう」
「う、うん……それなら、まぁいいか」
「監督との話はそう長くならない。すぐに戻ってくる」
「うん」
渋々といったかんじで頷くをよそに、赤司は内心ほくそ笑んで部室を出た。職員室へ向かうがてら、体育館のほうから他の部員が練習を終えて戻ってくるのが視界の端に映った。赤司と同じようににちょっかいを出す輩は多い。意外にも上級生よりも下級の一年生のほうが積極的だったりする。早々に用を済ませて戻ってくるのが無難だろう。赤司は足早に職員室への道のりを進んだ。
宣言通り、監督との話を早々に切り上げ、赤司は急ぎ部室に戻った。先ほどとは打って変わってかなり賑やかになっている。男所帯だ。練習後ともなれば必要以上に声が大きくなることもあるだろう。それはいい。いつものことだからだ。ただこの時は男性陣の中から際立って女の笑い声が聞こえてきたものだから、赤司は眉間にしわを寄せた。バスケ部に女子など一人しかいない。
「あっはは。やめてよね、平沢くん。そういう天然は」
「いや、オレのせいじゃねーっすよ。そんな笑わないでください、さん」
部室内では以外にも爆笑の渦がそこら中で巻き起こっていた。奥のほうでは平沢が床に尻餅をついた状態で顔を赤くし、周りに抗議の声を上げていた。
「あ、キャプテン。お疲れさまです」
ドアのいちばん近くにいた後輩がいち早く赤司の存在に気づき、頭を下げてきた。
「ああ、お疲れ……この騒ぎはいったいなんだ?」
「いやぁ、平沢のやつが、誰かが落としたバナナの皮に足を滑らせてコケたんすよ」
「バナナの皮……」
たしかに平沢のそばにはバナナの皮が落ちていた。周りの連中はロッカーの扉を叩いたり、うずくまったり、こんな古典的な罠に引っかかるやつ初めて見たわと言って笑いを止められずにいる。
「。君もいつまで笑っているんだい? そもそも君は一人で先にこの部屋にいただろう。落ちてることに気がつかなかったのか?」
「ごめん、だって」
は目尻に涙を溜めて腹を抱えている。
「私の座ってる位置からは死角だったんだもの。仕方ないじゃない」
決定的な瞬間を見ていたわけではない赤司は、この笑いについていけない。それどころか、言いようのないもやもやが急速に募っていく。
「、行くよ」
「あ、うん」
の荷物はすでに整えられ、いつでも出られるようになっていた。
「あー、久しぶりにすっごい笑った」
スクールバッグを肩にかけ、未だ顔の緩みを元に戻せないを見ていると、いよいよもって赤司のイライラがピークに達した。
「いつまでも笑っていないで早く帰れ。そのバナナの皮はきちんと処分しておくように」
お咎め口調で言ったはずなのに、愉快になりすぎた部員たちは「はーい」と呑気な返事しかしてこない。それでもきちんと「お疲れさまです」と言ってきたことだけは、及第点といったところだろうか。
外へ出た瞬間、もわっとした空気が全身を包み込んだ。盆が過ぎたとはいえ、まだまだ暑さ厳しい日が続いている。陽が暮れても暑さが和らぐことはなく、むしろ蒸し暑さが増したとさえ思えるくらい外は暑い。
そんな中、赤司はと並んで駅へ向かった。周りには同じ制服を着た生徒たちがちらほらといる。皆、各々の部活帰りなのだろう。大きなスポーツバッグを下げている者が多い。
「赤司くん、機嫌悪そうだね。なにかあった?」
校門を出ていくらもしないうちに、はそう切り出してきた。赤司は意表を突かれたような心持ちになり、ついの横顔を見つめてしまった。は笑うわけでもなく、かといって強張っているわけでもない。ただ淡々と、思ったことを口にしただけのようだった。
「そういうことをストレートに訊いてくるところは、の利点と言っていいのかな」
「どういう意味?」
「ふつうはもう少しオブラートに包むという意味だよ」
まるで赤司の言ってる意味がわからないとでも言いたげに、は首を傾げた。
「の言う通り、たしかに機嫌は悪かったよ」
赤司は視線を前に戻してから、語りだした。
「やっぱり。監督との話でなにかあったの?」
まるで見当違いな方向へ思考が進んでいくに、赤司は「いや」と苦笑をもらした。元凶は自分だという考えにはならないらしい。いまのの頭の中は、バスケ……つまり部活のことでいっぱいなのだろう。
「さぁ、どうだろうね」
「なにそれ。今日の赤司くん、変だよ」
「ほら、またオブラートに包んでいない」
は眉をひそめて肩を竦ませた。きれいな顔にしわが寄って痕にならないかと心配になる。
「で、赤司くん。相談したいことってなに? 早くしないと駅に着いちゃうよ」
学校から駅までの道のりはさほど長くない。十分もあれば駅前に出て学生や勤め人、観光客の喧騒に包まれる。もう駅は目の前だ。
「ないよ」
「は?」
は足を止めてさらに深いしわを眉の間に刻んだ。必然的に赤司も止まり、二人の横を何人もの人が通り抜けていく。
「じゃあなんで一緒に帰ろうなんて言ったの」
それがあたかも悪いことであるかのようには咎め口調になった。そもそもこの世に相談がなければ一緒に帰ってはいけないというルールがあるのかと、逆に問いただしたい。
男子が女子に一緒に帰ろうと誘う理由が思いつかないのであれば、は相当な強敵である。もちろん、一年以上部活を通してつき合いがある赤司にはわかり切っていることだ。
「あるさ。ちゃんとした理由は。だけどいまはまだ教えられない……さぁ、行こう。いつまでもここで立ち止まってると、通行人の邪魔になる」
「あ、うん」
赤司に促されるままには歩き出した。きっといま頃は頭の中にハテナが飛び交っていることだろう。普段は聡明なも、この手の話になるとさっぱりのようだ。
駅の改札内でとは別れ、赤司は別の路線のホームへと上がっていくの背中を見送った。ここでかわいらしく振り返って手を振るようであれば、赤司はにこんな感情を抱くことはなかっただろう。
難攻不落。彼女を落とすのであれば、一筋縄でいかないのは明白だ。そう簡単に他の者の手に落ちる心配がないのはありがたいが、に限っては赤司も同条件だろう。なんとしてでも落としたい。こんなに強く誰かに特別な存在として隣にいて欲しいと願ったのは、初めてのことだった。
萌えいずる瞬間(とき)を待つ
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お誕生日ネタではないけれど、赤司くんのお誕生日に更新をしないだなんてそんな…と気合いで更新。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
2021.12.20