今年の12月20日は木曜日、ど平日だった。
仮に休日だったとしても、世間一般からみればなんの変哲もないただの日常。年によっては冬至にあたり、せいぜいかぼちゃを食べたり柚子湯に浸かるくらいだろう。
しかし、ことにとっては一年の中でもっとも重要な、ともすれば自分の誕生日よりも大切な一日だった。
そう。恋人、赤司征十郎の誕生日である。
もちろん、当日は盛大に祝うつもりで有給休暇の申請をしていた。赤司はいつも通り仕事だが、彼が勤しんでいる間にこっそり仕込み、我ながら最近めきめきと腕を上げている手料理を振る舞うつもりでいたのだ。ところが、である。
「え……会議?」
12月の初頭。そろそろおやつの時間かなという頃合いにウェブ上で管理している社員スケジュールを何気なく開いてみた。するといつの間にか予定が追加されていた。
会社の人間であれば誰でも予定を書き込める。便利でもあり、迷惑でもあるこのシステムにこんなにも殺意が湧いたのは初めてだった。
手に持っていたマカロンの欠片がころんとデスクの上を転がる。
「しかもこれ、私、欠席できないやつじゃん」
こんな予定を入れたのはどこぞやの誰だ! 部長だ!
その瞬間、はここが会社であることを忘れて盛大にうな垂れた。
そして迎えた当日。有給取得が無理だったとしてもまだ道が閉ざされたわけではない。定時ダッシュすればまだ間に合うのだ。そう気合いを入れて出社し、会議に臨んだ。ようはこの会議に出席さえすればよいのだ。そのあとはただ静かに黙々と業務をこなしていればいい。そして定時になったらそっと帰る。
何度もシミュレーションし、段取りは頭にたたき込んである。あとは何事も起こらなければ私の勝利だ……。しかし、世知辛い世の中はそう易々と事を運んでくれるものではない。頭の片隅でそんなことを考えていたからかもしれない。またもや、ところが、という状況に陥ってしまったのは。
「さん。ちょっといいかな」
お誕生日席にいる課長から名前を呼ばれてはぎくりとした。課長、いま何時か知ってます? 夕方の5時ですよ。
おそるおそる課長の席へ行くと、もっとも恐れていた事態を言い渡された。
「悪いんだけど、これを今日中に仕上げてくれないかな。君ならすぐできるだろう?」
どうやら明日の出張で必要な資料の作成らしい。たしかにパソコンを扱うスピードは部署内でもが抜きん出ている。タイピングだけならの右に出るものはいないのでは。とさえ思う。そういう判断で課長はこの仕事をに押しつけてきたのだろう。そこまでは理解できる。だが、どんなにタイピングが早かろうと、この資料作成をあと一時間弱で終わらせるのは到底不可能だ。
は遠い目をした。
「聞いているか。」
「あ、はい。すみません」
放心してました。とはいわない。
「わかりました。超特急で取りかかります」
「悪いな。頼むよ」
半ばやけくそになり、は自席に戻った。いつかこの落とし前はきっちりつけさせてやる。
結局この日、会社を出られたのは夜の8時頃だった。いまから帰るとなると、家に着くのは9時過ぎになるだろうか。
はバッグから携帯を取り出し、赤司にメッセージを送った。
『ようやく解放されました。いまから帰ります』
すぐに既読がつき、返事がくる。
『お疲れ。気をつけて帰っておいで』
そのわずかな文面にほんの少しだけ元気を取り戻し、は帰路についた。
赤司はすでに合鍵を使っての家に上がっている。もとより赤司はこの日、の家にくることになっていたのだ。
いつも帰りが遅い赤司なのに、今日に限って早かったらしい。大方、彼の部下が今日くらいは早く帰ったらどうかと助言したのだろう。ありがたい話ではあるが、こちらとしてはいろいろと大誤算である。
必要以上に疲れたと感じるのは、身体的疲労だけのせいではないだろう。この上ない楽しみを乗り上げられたことに対する心理的負担がでかいのは確実だ。あの課長と部長、許すまじ。
ボロ雑巾のように、身も心もボロボロな状態でマンションにたどり着き、階段を上る。途中で身を切るような風が吹いて、は首をすくめた。
東京の風は冷たい。日本海を臨む雪国生まれのは、何年東京に住んでいても東京の寒さには慣れなかった。そもそも寒さの質が違うのだ。そう話しても東京の人にはなかなか理解してもらえない。日本海側の冬の風は冷たいのではなく、文字通り、寒いのだ。
施錠を外し、玄関扉を開く。その瞬間、あたたかい空気がを包み込んだ。思わず、ホッと息が零れる。
ブーツを脱ぎ、たたきのはじに寄せていると、リビングへつながる扉が開き、赤司がひょっこり顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「寒かっただろう。お湯を湧かしておいたから、まずはあたたかいものを飲むといい」
最愛の人に迎えてもらえてホッとするのと同時に、扉の奥に消えてしまった赤司を見て、は違和感を覚えた。
いま、手になにか持っていなかった?
その正体はすぐにわかった。バッグやコートを置き、リビングに入ると、赤司がキッチンに立っていたのだ。手に持っていたのは、菜箸だったらしい。コンロの上には鍋が載っている。グツグツと音を立て、お腹の虫をくすぐるようなほのかな出汁の香りを漂わせている。
「征十郎さん。これは……」
いったいどういう状況なのだろう。
「勝手にキッチンを使わせてもらったよ」
それは一向に構わないのだが、彼がこの家でキッチンに一人で立っている姿など見たことない。それ故には目をまるくする。
「冷蔵庫を開けてみたら、いろんな豆腐が各種取り揃えられているのに気がついてね」
「あー、」
もちろん、それはが用意したものである。豆腐料理のコースさながら、豆腐祭りを開催つもりで、近所のスーパーからお取り寄せまであらゆる手段を駆使して揃えたのだ。
あの豆腐だらけの冷蔵庫を見られたのかと思うと、ちょっと恥ずかしい。
「せっかくだから豆腐のバラエティに富んだ湯豆腐をつくってみたんだ。君にも考えがあっただろうから悪いとは思ったんだが、こんな時間からなにかをつくらせるのも酷な話だろう?」
「そんな気を遣ってくれなくてもよかったのに」
「遣うさ。君は大事な恋人なんだから」
何気なく零した言葉に返ってきたのは、想像以上にを赤面させるものだった。とっさに続く言葉が紡げず、は口を引き結んだままコンロに近づいた。鍋の中の豆腐は一見、ぜんぶ同じに見えるが、よく目を凝らしてみるとそれぞれ特徴があることがわかる。どうやら絹も木綿も関係なしにぶち込まれているらしい。
「豆腐の闇鍋みたい」
「闇鍋? おもしろい発想だね」
それをいうなら、赤司の発想のほうが奇想天外だろう。
菜箸を持っている赤司はなんとも不釣り合いで、彼の手を煩わせてしまったと反省しつつも愉快な気持ちもこみ上げてきて、は今度こそ本当に元気が出てきたように思った。
「もうそろそろいいだろう。テーブルに運ぶよ。危ないからは座って待ってて」
「え、いいよ。それくらい私がやるよ」
「いいから」
冷蔵庫の脇にマグネットフックでぶら下げてあるミトンに手を伸ばそうとすると、赤司に制され、コンロの前から追いやられてしまった。あっちへこっちへとキッチンを歩き回る赤司を見ていると、どっちが今日の主役なのかわからなくなる。
「、早く」
「……はい」
致し方なくは席に着いた。仕方ない。料理のことは諦めよう。まだプレゼントを渡すという一大イベントが残されているのだから。
いつの間にか炊かれていたご飯も装われ、着々と目の前にお皿が並んでいく。仕上げにテーブルのセンターに鍋を置き、蓋を開ければ、ちょっと遅めの夕食の完成だ。もくもくと立ち上っていく湯気が冬らしさを演出している。
「さぁ、冷めてしまわないうちに食べよう」
「そうだね。……いただきます」
箸を手に取り、さっそくお鍋の具材を器に盛りつけていく。は味つけ醤油をうっすらかけて食べるのが好きだった。
お鍋なんて誰でもつくれるし誰がつくっても同じだろうに、どうして人がつくってくれたものはこんなにおいしいと感じるのだろう。顔を綻ばせながら一口、二口と箸を進めていると、ふと赤司はなにも食べずにこちらをじっと見ていることに気がついた。
「征十郎さん。食べないの?」
「食べるよ」
しかし、さらに三口、四口と進めていっても、一向に赤司が箸を取る気配を見せなかった。
「征十郎さん。その視線を外して。気が散る」
「難しい希望だな」
「なにも難しくないよ。ほら、箸を手に取って食べて。なんなら盛りつけてあげようか」
は返事も聞かずに赤司の器に手を伸ばし、勝手に盛りつけを始めた。とりあえず絹と木綿の豆腐を一つずつ取る。それからネギと白菜と……、ん? おたまを鍋の底のほうまで沈めて引き上げると、緑がかった豆腐も出てきた。これは変わり種で揃えておいた枝豆風味の豆腐だ。こんなものまでぶち込まれていたとは、さっきは全然気づかなかった。その緑がかった豆腐もついでに盛りつけて、赤司の前に器を置いた。
「どうぞ」
「仕方ないな。……いただきます」
ようやく赤司は箸を取って食べ始めてくれた。
有給を取って最高にもてなすつもりだったのが出勤せざるを得ない状況になり、挙げ句、想定外の残業まで課せられて散々な一日だったけど、こうして最愛の人と食卓をともにしていると、すべてがどうてもよかったように思えてくるから不思議なものだ。
お腹が満たされ、座る場所をソファに移したところでは次の行動に出た。スッと立ち上がり、テレビボードの横のキャビネットから小ぶりの紙袋を取り出してくる。数日前から今日のために仕込んでおいたものだ。
「征十郎さん」
「なんだい?」
今日がなんの日か知らないはずがない。なんだい? と訊きながらも、目を細めて微笑んでいる様を見ていると、この状況を期待して楽しみにしていたことが容易に窺える。
ああ、愛されているな。と、自惚れでも感じずにはいられなかった。
「これ、誕生日のプレゼント」
きっと喜んでくれる。そう思っていても、やはり渡す瞬間はドキドキするものだった。
赤司は微笑みを崩さずに受け取ってくれた。
「ありがとう。開けてみても?」
「もちろん」
赤司は膝の上に紙袋を乗せ、中から取りだした小包の包装を丁寧に剥いていった。
「これは、ネクタイピンだね」
赤司は日々おしゃれなネクタイピンをかわるがわるつけていた。装飾が派手ではないからつき合い始めてしばらく経つまでは気づかなかったのだが、さり気なくおしゃれを楽しんでいるところが赤司らしくては好きだった。
「コレクションの一つにでもしてもらえたらと」
「気づいていたんだね。俺がネクタイピンにこだわりを持っていたことに」
「なんとなくだけど」
赤司はしばらくネクタイピンを見つめたあと、元通り紙袋の中へと仕舞い、より一層笑みを深めた顔をに向けてきた。はそのきれいさに一瞬、視線を宙に彷徨わせる。
「本当は手料理も振る舞うつもりだったんだけど、いろいろと誤算が生じてしまって」
照れてしまったことをごまかすようには早口で謝罪の言葉を口にした。
「構わないさ。そんなことは」
「今度は私がつくるね。湯豆腐」
「そうだね。ぜひお願いしたいね。それよりも」
「はい?」
ふと気づくと赤司はもの欲しそうな目をしていた。これはなんだろう。急に色香が漂ってきたように思う。
「俺はこう見えてけっこうわがままなんだ。君からもう一つ、プレゼントをもらいたい」
「え、もう一つ……?」
よからぬ気配を察知し、一瞬、身構えてしまったが、赤司の視線を受けとめているうちに肝心なことを伝えるのを忘れていたことに気がついた。
「あ、そっか」
そういえば、まだ一度も口にしていなかった。
「征十郎さん。お誕生日おめでとう」
いつも赤司から受け取っている愛を百倍にして返すつもりで心を込めて伝えれば、赤司の手がそっと伸びてくる。やわく後頭部を抱えられ、鼻先がぶつかりそうなほど顔を寄せられた。
「誰よりもいちばん君からその言葉が聞きたかった。ありがとう」
も近距離の瞳を見つめながら思った。私も誰よりも生まれてきてくれてありがとうと伝えたいのは、あなたなのだと。
誤算だらけのspecial day
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『2018赤たん そのA』です。まんま赤司くんの誕生日当日をお祝いするお話です。
かつて、豆腐を各種取り揃えて豆腐祭りを開催したのは私です。その時は湯豆腐ではなく、ただひたすらしょう油なりをかけて食べるだけでしたが。モッツァレラチーズ風とか、レアチーズのような豆腐とか、変わり種も集めていろいろ食べてみましたが、結局いちばんおいしかったのは出汁をかけて食べるやっこさんでした。その時に思ったのです。赤司くんは最初からお豆腐のおいしい食べ方(出汁で食べる)を知っていたんだね。ごめんね。と。なにに対する謝罪なのか自分でもわかりません。ただ、それ以来は変わり種に手を出すのはやめました。
2018.12.24