赤司と別居してからちょうど一週間が過ぎた。実際は金曜日の夜には家を飛び出してるので、実質、もう一週間以上赤司と一緒にいないことになる。
その間、は日常生活を送りながら自分の心と向き合い、一つの答えを導き出していた。
後悔しない人生なんていうのは、きっと存在しない。人はみんな。後悔しながら生きていくんだ。
そうであるならば、一年先、十年先に後悔することに怯えるよりも、明日、後悔しない方を選びたい。
それは即ち、今の気持ちに素直になること。
日曜日、は高尾のマンションに来ていた。
在宅してるかどうかは賭けだったが、インターホンを鳴らすと高尾はすぐに出てくれた。
「おっどろいた。いきなり来るんだもんな。……まぁ上がれよ」
高尾は玄関ドアを大きく開けて中に入るように促してくれた。だが、は静かに首を横に振った。
「今日は返してもらいに来たの。私の指輪」
「……」
「和成が持っているのでしょう?」
「気づいてたのか。あんなに取り乱していたのに、しっかり見てんだな」
「そんなことないよ。少なくともこの家にいる間は気づいてなかったもの。ただ、あるとしたらここしか考えられなかっただけ」
おそらくあの日の夜、寝ている間に高尾がの指から抜いたのだろう。
この家に来て初めてお風呂を頂いて上がった時、入る前に外していた指輪をはめ直した記憶はある。あまり自信はないが、次の日のお風呂の時にはそれがなくなっていたように思う。
高尾は複雑な表情でを見つめていたが、やがて諦めたように奥へ行き、指輪を持って戻ってきた。
は手のひらを差し出して返してもらおうとしたのだが、急にその手を引かれ、気づくと高尾の腕の中に収まっていた。
「……この指輪、どうすんの?」
「お願い。返して。大事なものなの」
「大事なものねぇ……。やっぱり、俺を選んではくれないんだな」
「……」
「そんなもん、ないって言い張って捨てちまえば良かった」
高尾の腕の中は心地良かった。この腕に包まれるのが大好きだった。いや、違う。今も大好きだ。ここまで自分を想い続けてくれる高尾が、泣いてすがりたいくらいに大好きだ。
でも、もう決めたこと。
「残酷かもしれないけど、私は今でもあなたが好きみたい」
そう言うと、高尾の抱擁がきつくなった。
「ほんっとマジで残酷。好きとか言いながら、もうその手を俺の背中に回してくれることはないんだろ?」
「……そうね」
抱きしめられているの腕は、重力に任せて下にぶら下がったままだった。
「私の中途半端な気持ちが、またあなたを傷つけてしまう。だから今日で本当にさようならよ。……高尾くん」
高尾は突き放すようにを解放した。はその力に負けてよろけるが、高尾が手を差し伸べてくれることはもうなかった。
そして少し乱暴にに指輪を渡した。
「俺はの幸せなんて願わない。もし願う日が来るとしたら、それはのことを嫌いになった時だ」
「そうね。願ってくれなくていいよ。その分、私はあなたの幸せを願うから」
「……何だよそれ」
それはきっと高尾の心そのもの。に対する高尾の気持ちは昔も今も、そしてこの先も変わらないということなのだろう。本気で好きになった人が自分以外の誰かと幸せになるなんて願えるはずがない。
高尾がを想い続ける限り、の幸せは願えない。それはとても理にかなってる。
だからその分、は高尾の幸せを願おうと思う。
「あー、くっそ」
高尾は頭をわしゃわしゃと掻いてに背を向けた。
「さっさと行ってしまえ」
は高尾の背中を見つめながら、掛ける言葉を探した。だけど、いくら探してもこの場にそぐう言葉は見つからない。
どうか、次に高尾と会う時は、お互い心から笑い合えることを願って、は静かに高尾の家を後にした。
―― こんな私を好きになってくれてありがとう。
いつまでも鮮明な記憶として焼き付いていた気持ちが、ようやくセピア色のきれいな想い出になってくれた瞬間だった。
※
「しばらくしたら連絡をしてくれると助かると言ったはずだが……」
「ごめんなさい。いきなりはさすがに迷惑だったかしら?」
またもやはアポイントなしで今度は赤司家に来ていた。
高尾と別れた後、あっちへふらふら、こっちへふらふらしながら赤司へどう連絡するかを考えあぐねていた。だけど結局何て連絡したらいいのかわからなくて、最終的に何も連絡せずに来てしまった次第であった。
「迷惑ではないが、いなかったらどうするつもりだったんだい?」
「その時はその時かなって」
たとえ今日会えなかったとしても、焦る必要はないと思った。の意志はすでに決まっているのだから、赤司の拒絶がない限りいずれは必ず会える。
でも、できることなら、この気持ちを早く伝えたい。
赤司は玄関に佇むを見つめ、何か言いたげな瞳を窺わせたが、ここでは何も言わずにを上げてくれた。
当然のように応接間へ通されそうになったところでは足を止めた。
「……嫌でなければ、征十郎さんの部屋でお話したいのだけど」
そう控えめにお願いをすると、赤司は応接間のドアの取っ手に手を掛けたまま、少し面食らった顔をして固まってしまった。
しかし、やがて「構わないよ」と言うと、取っ手から手を下ろして進行方向を変える。
「場所は知ってるね? 先に行って待ってて」
は深く頷いた。
赤司の部屋に入るのは随分久しぶりな気がする。はぐるりと部屋を見渡してからソファに腰を下ろした。
しばらくすると赤司がお茶とお菓子を持って入ってきた。
どうやらが二人きりで話をしたいと思ってることを汲み取ってくれたらしい。
赤司はの隣に腰を下ろした。
二人でこうして並ぶのも随分久しぶりだ。そしてこんな心穏やかな気持ちになるのも。
だが赤司はまだの気持ちを知らない。平然とした顔を見せているが、内心不安だらけなのだろう。
次にと会う時は、から否か応か、その答えが返ってくるのだから。
赤司は強さを持つ分、弱さを持つ繊細な人。そして惜しみない優しさをくれる。
そんな赤司が、今は心の底から愛おしいと思う。
はカバンの中から一枚の写真を取り出した。
それを見た瞬間、赤司の顔が気まずいものに変わった。幼い子供が悪いことをして、それを親に見つかってしまった時のような苦い顔。
「ごめんなさい。せめて掃除だけでもと思って征十郎さんの部屋に入って掃除機を掛けてたら、棚にぶつかっていろいろ落としちゃったの」
落としたのは主に書籍類だった。おそらくその中のどれかに挟まっていたのであろう一枚の写真。メインで写っているのは赤司だが、そこにはの姿も写り込んでいた。
「これはウィンターカップの時のものよね?」
ウィンターカップはメディアが入っており、写真をたくさん撮られる。後ほど、希望者はその写真を購入できると聞いたことがある。
「すっと、手帳に挟んで持ち歩いていたんだが、随分傷んでしまってね。今年に入ってから持ち歩くのをやめていたんだ。に見つからないようにと思っていたんだが、もっと周到に隠しておくべきだったね」
「逆よ。見つかって良かったわ」
赤司にとっては見つかりたくなかったものなのだろうけど、にとってはこの写真が転機となった。
それまでは自分の本当の気持ちがわからなかった。かたちは違えど、変わらず好きだと言ってくれる高尾と赤司。その狭間で揺れ惑う心。どちらかを選んでしまえばもう片一方を傷つけてしまうことになる。それならいっそのこと、どちらも選ばなければいいのではないかとさえ思った。だけどそれはきっと無理なこと。今更、膨らみすぎた二人への気持ちを断ち切るなんて、到底できそうになかった。螺旋階段が永遠に続くみたいに堂々巡りを繰り返していた。
そんな時にこの写真を見つけてしまった。
見つけた瞬間、今まで何かに阻まれていた思考の波がどっと押し寄せてきた。
あの赤司が、こんな女々しい物を持ち続けていただなんて。
決して鮮明とは言えないの姿。これを見て、赤司は何を思っていたのだろう? どんな風に想い続けてくれたんだろう? その記憶の断片に触れてみたいと思った。
「私たち、確かにこの頃から何度も顔を合わせていたのね」
はその写真を大事そうに胸に抱え込んだ。
「……?」
「今まで、中途半端にふらついたりしてごめんね」
「……キミを惑わす原因をつくったのは俺だ」
「いいえ。つくったのは私の弱さよ。あなたは自分の意志を貫いただけ」
これがもし四年前であるならば、きっとこんな気持ちにはならなかっただろう。もっと言えば、一年前でもならなかったかもしれない。今回みたいに高尾が目の前に現れたら、その手を取ってしまっていたかもしれない。
気持ちはどうあれ、赤司と過ごした四年間は決して無駄なんかではない。育まれたものがあるのは確かなんだ。
そうでなければ、赤司を失いそうになって嫌だなんて感情が芽生えてくるわけないのだから。
はカバンの中からもう一つ、先ほど高尾から返してもらった指輪を取り出した。そして左手の薬指にその指輪を通した。
「こんな私をずっと好きでいてくれてありがとう。この写真を見て、私の知らないところでずっと私を想い続けてくれてたんだと知ったわ」
そしてもっと赤司征十郎という人のことを知りたいと思った。今だけでなく、封印してきた過去もこれからのことも。
「だから……その……もし、まだ私を好きでいてくれるのなら、私と結婚してください。私は征十郎さんが……好きです」
過去を思い返していて気づいたことが一つあった。から赤司に好きだと伝えたことがなかったということ。赤司からはあんなにたくさん好きをもらってたというのに。
赤司といる時はいつも安らいでいた。それは確かに好きという感情を持っていなければ味わえない安らぎ。それなのに好きと言えなかったのは、高尾への気持ちを断ち切れない後ろめたさがあったからなのだろう。
が高尾とつき合ってたことを知っていた赤司は、の何気ない行動、言葉一つにきっと何度も傷ついていたのだろう。
全ての傷を癒すことはできないかもしれない。でも、だからこそ今度は、今までもらってばかりだった安らぎを赤司に与えたい。
「本当に、俺でいいのかい? 後悔は……」
「するかもしれないわね。でも、私は”今”あなたが好きなの」
これがの覚悟であり答えである。後悔のない未来なんてない。そして、今、赤司を選ぶということは、数ある未来の選択肢を捨てるということ。決めてしまうのは怖い。だけど、怯えてばかりでは本当の意味で後悔をしてしまうかもしれない。
もし、選んだ先で後悔をするのなら、赤司と一緒にしたい。
「……抱きしめてもいいかい? キスしても……」
「何を訊いてるの?」
そう優しく微笑むと、赤司は抑えていたものを解き放つようにを引き寄せ抱きしめた。それから少し身体を離し、両手での頬を包み込み、唇を重ねた。
優しく温かな唇。ようやく赤司と心まで重ね合わせることができたような気がした。
どうか、この気持ちが未来永劫のものでありますように。
「しかし、その指輪は左手に贈る予定ではなかったんだが」
「あ、……ごめんなさい。勝手なことをして」
「まぁいいさ。今度、一緒に見つくろいに行こう。それよりも……」
赤司は一度抱擁を解き、の唇を親指でひと撫でしてから視線をしっかり絡み合わせた。
「男が言うべきセリフを言われて少しばかり腹を立てている」
「うぅ……」
そして再び唇を塞ぐ。の言い分は一切聞かないとでも言いたげに、隙を与えないほど深く深く。
「キミの好きは俺の好きに到底及ばないよ。必ず幸せにすると約束する。結婚しよう」
赤司の優しい抱擁の中、は赤司の胸に顔を埋めながら、小さく頷いた。
本当は幸せにしてくれなくたっていい。不幸のどん底に突き落とさた時、隣にいて一緒に笑っていてくれるならそれでいい。
でも、赤司と一緒にいる限り、不幸にはなり得ないだろう。
赤司が隣にいる。それ以上の幸せなんてないのだから。
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以上で一旦は完結となります。ここまでお読みいただきまして、ありがとうございます。
最後のやり取りはおまけのようなものです。
2016.03.12