赤司の元から逃げてきてから二日が過ぎた。
高尾は何かを作ってくれているようで、キッチンからフライパンで炒める音が聞こえてくる。時折、鼻歌も混じって聞こえてくるところから、どうやら機嫌が良いみたいだ。
今日は日曜日。もう間もなく正午を迎える。昨日今日は良かったものの、明日からは普通に仕事だ。いつまでもこうしているわけにはいかない。
この二日間でいろんなことを思い出していた。高尾とつき合い始めた頃のこと。楽しかった高校生活。そして突如として現れた赤司。赤司に惹かれていく気持ちを抑えきれなくて高尾を振ったこと。そして赤司と過ごした日々。
―― 私は……同じ過ちを繰り返そうとしている。
もう誰も傷つけたくないし、傷つきたくない。今度こそきちんとけじめをつけなければ……。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
高尾は「はいはーい」と軽快な声を上げてインターホンの受話器を上げた。
「えっ、真ちゃん? 何し……外? ちょっと待って。今出っから」
受話器を下ろした高尾は鍵を掴んで外へ出ていく。聞き間違いでなければ、高尾は今、真ちゃんと言っていた気がする。それはも知る緑間のことだろうか。今、が高尾の部屋にいると知ったら緑間はどう思うのだろう。
しばらくして戻ってきた高尾は出ていく時の機嫌はどこへやら。不機嫌全開だった。
「、赤司が来ている」
は一瞬にして凍りついた。
―― 征十郎さんが来ている……?
なぜ? や、どうして? よりも先に赤司に対して抱いた恐怖心を思い出しては身を震わせた。
会うのは怖い。だけど今しがた、今度こそきちんとけじめをつけると決めたばかりではないか。いずれにしてもいつかは赤司と話さなければならないことに変わりはない。
は立ち上がって、会いに行くという意志を示した。
「エントランスにいる」
「……ありがとう」
高尾は心底嫌そうな顔をして、に鍵を渡した。高尾もきっと、このままでは何も解決しないと思っているのかもしれない。
は鍵をしっかりと受け取って外へ出た。二日ぶりの外の空気は、の心を奮い立たせてくれた。
おそるおそるエントランスまで下りると、そこには緑間と赤司が並んで立っていた。緑間は険しい顔をしていたが、赤司はどこか弱々しく見えた。一昨日の怖さがないことにまずはほっと胸をなで下ろした。
赤司はの姿を認めるなり、の身体を抱き寄せた。
突然のことに身を強張らせたが、それは怖いとか嫌だとかそういうのではなく、緑間に見られているという恥ずかしさからくるものだった。現に緑間は信じられないものを見てるかのように、すごい顔をしている。
「すまない。醜い姿を見せた。怖い思いもさせてしまった。許して欲しいとは言わないが、戻ってきて欲しい」
赤司のを抱き寄せる腕に力がこもった。そんな赤司が計り知れぬ何かに怯えているみたいに見えて、胸がぎゅっと締めつけられる。
「俺はキミのつき合ってる相手が高尾だと知っていた」
「えっ……」
唐突であり、衝撃の告白。赤司はの身体を一度離し、しっかり視線を合わせてから告げた。
「全部話すよ」
は高尾の部屋には戻らず、赤司と二人で暮らすマンションへ帰ることにした。荷物……といってもカバン一つだけなのだが、それは緑間が取ってきてくれた。
ほぼ無言で帰宅し、今は赤司が淹れてくれたコーヒーをすすりながら、ダイニングテーブルで向かい合っていた。
「さて、何から話そうか」
赤司はゆっくりと順を追って話し始めた。
※
赤司が初めてと顔を合わせたのは、家に訪れたあの冬の夜ではなかった。それよりも更に二年も前からのことを知っていた。
一年生の時のウィンターカップ。それが始まりだった。
会場で制服のスカートを翻しながら歩くを初めて見かけたのは、三回戦の日のこと。制服からして、秀徳高校の生徒だということはすぐにわかった。
学校の応援として来ていたのだろう。背筋をスッと伸ばして歩く姿が印象的で、きれいだと思った。
次に見かけたのが準決勝の日。秀徳高校はこの日に敗退。は学校の応援集団の中で、みんなと一緒に泣いていた。
その次に見かけたのが最終日。つまり決勝の日。前日に敗れた秀徳高校は学校単位として応援には来ていない。それなのに来ているということは、個人的に観にきているということだ。一人で観に来るほどバスケが好きなようには見えない。誰かと一緒に観にきているのだろうか……。
その答えは全ての大会工程を終えて会場の外へ出た時にわかった。
大勢の人でごった返す中、がいた。そしてその隣には高尾の姿。
そうか。彼女は高尾と一緒に来ていたのか。胸の痛みを覚えた刹那、凛としたの声が聞こえてきた。
「負けることイコール敗北ではないわ。負けたことを否定するのが敗北よ」
どういう経緯で出てきた言葉なのかはわからない。だが、その言葉で落ちたのは確かだった。
そして、たまたま見かけて何となく気になる人から好きな人にシフトした瞬間、失恋を強いられた。
心をえぐられた気分だった。そんな深く突き刺さるような芯の強い言葉をくれる人は、赤司の周囲にはいない。
それ以降、全国規模の大会での姿を見かけるたびに甘い棘が刺さるようになった。
を見て高揚するのは確かだが、がそこにいるということは、と高尾の仲が健在だということと同義。
そしてそれは三年のウィンターカップまで続いた。
結局、最後まで棘が抜けることはなかった。このままもう会うこともなく、いずれは消化していく想いなのだろう。そう思っていた。
元より略奪する気などなかったのだから。
ところが事態は一変した。
高校三年の一月。東京の本邸に帰省していた時のこと。
父に呼ばれ、書斎で話していると、机の上の書類に紛れてる一枚の写真が目にとまった。何気なく眺めてるつもりだったが、次の瞬間には目を見張っていた。どこかの家族の写真。その中にあの彼女の姿があった。
「私の学友の家族写真だ」
じっと写真に視線を送っていると、察した父が教えてくれた。
一家の名は。赤司も知ってる名だった。家は有名な資産家だ。そして家と赤司家は細々とではあるが、今でも交流があるという。
「子供は二人ですか?」
「そうだ。これは二年前の子息が成人した時のものだ。子女は四つ下でお前と同い年だ」
知っている。……とはさすがに言わないが、その代わりに
「彼女に会ってみたいです」
と告げた。
あんなに面食らった父を見たのは、後にも先にもこの時だけだ。
もう二度と繋がることはないと思っていた糸が繋がった。
元からこの帰省は赤司を家へ連れていくためだったというのだから、驚いたものだ。
そしてこれがきっかけで、赤司に火が点いた。
一度消えかけた火が再び燃え滾った時、その勢いは衰えることを知らない。
その翌日の夜、赤司は家にいた。
薄々そうかもしれないと抱いていた淡い期待。両家の当主は二人の結婚を望んでいるかもしれないという期待ががこの時確信に変わった。
逃がすものか。
嫌だと泣くをよそに、赤司はこの千載一遇のチャンスをみすみす見過ごすなどあり得ないと、攻めの態勢に入った。
※
「……知らなかった」
「知っていたら困るよ。キミを繋ぎ止めておくために秘密にしてきたことなのだから」
赤司から聞かされた話はどれも驚くことばかりだった。
「俺はあの時、一つだけ嘘をついた。キミに惹かれていると言ったが、本当は最初から好きだった」
―― 信じられない。そんな風に想われていたなんて。
「でも、偶然なのよね?」
「そうだね。再会は偶然。まさかキミが家の子女だとは思わなかったよ。キミはあの時、自分の身の上を呪っただろうが、俺は初めて自分の身の上に感謝した」
赤司の話を聞いてよくわかった。当時、いかに高尾のことしか目に入っていなかったのかが。
幾度となく赤司を見ていたはずなのに、全く気付いていなかったのだから。
「緑間くんとはどういう知り合いなの?」
「緑間は中学時代のチームメイトだ」
「……もしかして征十郎さんって、キセキの世代ってやつ?」
「主将を務めていたよ」
自分の知識のなさに愕然とした。あんなに高尾にくっついてバスケを観てたというのに、キセキの世代と聞いて知っているのは緑間しかいない。……いや、違う。たぶん聞かされていたのに覚えていなかっただけだ。
「ということは、高校バスケの世界では有名人だったってことよね?」
「そうなるね」
―ー やっぱり信じられない。
世間の狭さも自分のアホさかげんも。
「ちなみにだが、俺が初めてキミを見かけたウィンターカップでうちと秀徳は準決勝で当たってる。その時、ポジション的に俺とのマッチが多かったのは高尾だった」
「……」
もう返す言葉もなかった。
「さて、これで全部だ。もう俺が隠してることはないよ。そしてこれからが大事な話だ」
赤司は瞳に真剣な色を浮かばせて仕切り直した。そして紡ぎ出されたのは衝撃的なセリフ。
「一旦、一緒に生活するのはやめよう」
「えっ」
は驚いて勢いよく顔を上げた。何かの聞き間違いかと思うほど驚いた。だけど、もう一度聞き返す勇気はない。
「勘違いしないで欲しい。俺は今でもが好きだよ。だが、もう一方通行なのは嫌なんだ。だから俺はしばらく実家に帰る」
―― 何を……言ってるの!?
鈍器で殴られたみたいに頭が混乱し始めた。
「今は一緒にいない方がいいだろう? はここに残って考えて欲しい。これからのこと。一人にするのは心配だが、かと言って高尾のところに行かせたくはない」
「それなら私が……」
「ご両親に何て言うんだい?」
「うっ……」
若干の問答の末、が折れてここには一人が残ることになった。
「俺もいつまでも実家にいるわけにはいかないから、しばらくしたら連絡くれると助かる」
赤司は最低限必要な荷物をさっとまとめると、最後とばかりにの手を取って優しく包み込んだ。それだけで、今でもキミが好きなんだと語られているようで、胸が苦しくなる。こんなに真っ直ぐ気持ちを向けてくれる赤司に応えたい。でも、できない。もどかしい。
「……どうして? どうしてそんなに私なんかを」
「好きなのかって?」
純粋な疑問のつもりだった。だが、赤司は心外だと言わんばかりにクスッと笑みを零して答えた。
「それは前にも言っただろう? 人を好きになるのに理由はいるのかい?」
バタンと音を立て、今しがた赤司が出ていった玄関ドアを見つめながらは壁にもたれ掛かった。そしてそのままズルズルと崩れ落ちた。訪れる静寂が全身にまとわりついてくる。
―― ……あれ?
その時になって初めて気がついた。
―― 指輪が……ない。
ずっとの右手で輝いていたはずの指輪がなくなっている。最後に見たのはいつだったかと記憶をたどる。
―― 昨日はあったけ? 一昨日は?
指輪がないことはおそらく赤司も気がついてる。先ほど赤司が握っていたのは右手だった。
しばらく思案した後、は立ち上がった。
―― 大丈夫。指輪はきっと見つかる。
今は指輪よりもこれからどう生きていきたいのか。それを考えなければならない。
今度こそ間違えないために。
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2016.03.12
このお話を書き終え、サイトに掲載してから気づきました。ウィンターカップは準決勝で負けても最終日に三位決定戦があるということを。原作でも三決の話は出ていたというのに、何たる失態です。書いた当時はすっかり失念しておりました。
それからもう一つ。全体を通して辻褄が合っていないところがいくつかあるのは気づいてましたが、今まで気づかないふりをして放置しておりました。が、さすがにこれは……。と思う部分が一つあり、今回、こっそりと書き換えました。たった一言書き換えただけなのですが、多少はマシになったと思います。
2017.6.18