マルガリーテス

時の船は軋みながら進んでいく

翌日の正午前。は大きな荷物を抱えて京都駅の新幹線ホームに降り立っていた。
――確かに京都へ日帰りはちょっときついかもしれないけど……。
まさか、いきなり赤司家別邸で外泊することになるとは。
父にその旨を伝えると、驚きはしたものの「行ってきなさい」と二つ返事で前向きな了承を得てしまった。
は一つ、気持ちを切り替えるための息を吐いてから、視線を上げた。
京都は幼い頃に家族と来た以来だ、思うところはあるけれど、ここへ来ることそのものは楽しみだった。


「やぁ、いらっしゃい」
階段を下りて改札を抜けると、そこには赤司が待っていた。
「本当に来てくれるとは思わなかったよ」
「嘘……ですよね?」
「あぁ、嘘だ」
これまでの数回のやり取りで、この赤司という人間が恐ろしく理知的で頭の回転が速いということがわかってきていた。おそらくならこれが東京であるならば断り、京都であるならば頷くと、最初からわかっていたのだろう。
「さぁ、行こうか。お昼は予約してあるんだ」
赤司はさり気なくからカバンを奪い、その手を取った。
―― えっ、
突然手を握られ、は戸惑う。
「嫌なら振り払ってくれて構わない。ただ、キミはどういうつもりでここへ来たのかはわからないが、オレは今日、キミを落とすつもりでいるから覚悟はしていて」
宣戦布告……だろうか。は視線を落とした。
―― どうしよう……。
振り払うなんてできない。でも握り返すこともできない。その様はまるでの中途半端な心を表しているようだ。
「あぁ、それともう一つ」
先導する赤司は一度足を止めて振り返った。
「敬語はいらないよ。オレはキミと同じ高校三年生だから」


京都駅からは赤司家の送迎車で有名な湯豆腐をメインとした老舗料理屋へ向かった。この時に初めて赤司の好物が湯豆腐だと知った。
―― まさか、同い年だったとは……。
先ほど、敬語はいらないと言われた時は驚いた。あまりにも大人びたその風格からして、てっきり年上だと思っていたのだが……。それこそ成人していてもおかしくないと思っていたのに。
「けっこう失礼なこと考えてないかい?」
「え、いえ……あっ、いや、その……私よりもずっと年上だと思っていたので」
敬語はいらないと言われても、切り替えるのに少し時間がかかりそうだ。正面に座る赤司は姿勢も綺麗で箸の使い方も美しい。そこらへんの大人よりもずっと大人に見える。
「そうやって垣根をつくられるのは嬉しくないな」
「……ごめんなさい」
は亀みたいに首を竦めた。
だいたい、実家を離れて京都で生活をしているなんて言われて、同じ高校生と思える方が不思議ってものだ。
「少しずつ慣れてくれたらいいさ。……それに、大人っぽいと言うのならキミも同じだよ。オレにはもったいないくらい艶があって美しい」
「……私、まだあなたのものになったつもりはないわ」
「まだ?」
言ってから自分ではっとした。これではまるでいつかは自分が赤司を選ぶみたいではないか。
は自分の考えを打ち払うかのように、一度目を固く閉じた。
「言葉のあやです」
穏やかなようなそうでもないような雰囲気の中、運ばれてくる豆腐料理を平らげていく。たかが豆腐と侮っていたが、どれも頬が落ちそうなほどおいしくて驚くばかりだ。とりわけ、最後に食べた豆乳プリンはかなり美味だった。


「ありがとうございます。とてもおいしかったです」
「喜んでもらえたのなら何より」
お店を出たところでは赤司に深々とお礼を述べた。
昨日、突然のお誘いを受け、ずっとよりどころがなくそわそわしていたのだが、おいしいものを食べて胃袋が満たされたら幾分かすっきりした。赤司を目の前にして平常心を保つのは難しいが、せっかくここまで来たのだ。思う存分満喫しなければもったいない。

「あれ、車は……」
数歩、歩いたところで来た時に乗っていた車が見当たらないことに気がついた。。
「あぁ、先に帰ってもらったよ。ここからは公共機関を利用する。……歩くことになるが構わないかい?」
「えぇ。それは問題ないけど」
それ以外では問題大アリだ。ということはつまり、ここから先は赤司と二人っきりということになる。せっかくおいしいものを食べて満たされた幸福感がさっそく欠け始めてきた。
「どこかリクエストはあるかい? あまり遠すぎると他が回れなくなってしまうが、たいていの場所は案内できるよ」
「そうね……、二条城はぜひ見てみたいのと、あとは祇園の方も回ってみたいわ」
は思案してから答えた。


そして赤司のエスコートによる京都観光が始まった。
まずはじめはのリクエスト通り、二条城へ。ガイドブックやインターネットでどんな様子かは知っていたはずなのに、いざ本物を目の前にするとやはり違った。特に二の丸御殿は圧巻だった。書院造りは庶民の家のイメージが強かったのだが、それは思い込みだったのだと知る。
二条城のあとはそのすぐ南にある神泉苑というところに連れていってくれた。泉に架かる朱色の橋が何とも幻想的できれいだった。こんなに素敵な場所で無料で見て回れるというのに、みんな二条城へ流れてしまうのか、ほとんど人はいなかった。
そのあとは地下鉄に乗り、祇園へ。
陽が沈み、後は闇を待つだけという時分、花見小路を案内してくれた。完全に暗くなってしまう手前が一番風情があって美しいと教えてくれた。そして赤司の言う通り、確かに異世界へと誘われてしまいそうなほど美しかった。うまくすれば、本物の舞妓さんに出会えるらしい。
そして鴨川の方へ歩き、川べりまで降りて散歩した。

「さすがにいないか……」
―― いない?
「何が?」
「鴨川のほとりにカップルが等間隔で座るというのが名風景なんだが、さすがにこの寒空の下そんなもの好きはいないみたいだね」
「へぇ……」
は川のほとりに視線をやり、等間隔で座るカップルたちを想像してみた。そこに自分が混ざる日が訪れるのだろうか。訪れるとしたら隣にいるのは誰なのだろう。
その時、赤司に手を取られて胸がズキリと痛んだ。
―― なぜ、和成の顔が先に思い浮かばなかったのだろう?
今日は一日赤司と観光してとても楽しかった。そのことに今更罪悪感がこみ上げてくる。カバンの中には電源の切られた携帯。それは赤司と一緒にいる最中に高尾から連絡が来ることを恐れてのこと。
二度と揺れることのないと思っていた天秤がゆっくりと傾きを変えていく。
「そろそろ帰りましょ」
居たたまれない気持ちを抑え、努めて明るく赤司に伝える。
「そうだね。だいぶ冷えてきたし、帰ってゆっくり温まろうか」
手を繋いだまま二人は歩き始めた。帰る先は赤司家だ。結局帰ったところで赤司とずっと一緒にいることにかわりはない。
携帯の電源はいついれようかとか、そんなどうでもいい心配をは心の中で零した。


京都にある赤司家の別邸は立派な日本家屋だった。外観は純和風でありながら、屋内は現代生活を送りやすいように工夫され、モダン要素も含まれていた。
そこで夕飯をごちそうになり、お風呂も頂いた。
今は用に用意してくれた個室で一息ついているところだ。

はベッドに腰を下ろし、サイドテーブルの上に高尾から貰ったネックレスを置いた。それは戒めでもあるかのように今日一日身に付けていたものだ。赤司には見られないようにと、タートルネックの服を着て隠していた。
高尾から連絡が来ることを恐れていながらこんなものを身に付けていただなんて、滑稽で笑ってしまう。
その時、部屋をノックする音が聞こえた。
「はい、どうぞ」
控えめにドアが開いて入ってきたのはやはり赤司だった。
「今日は一日ありがとう。疲れただろう? 慣れない場所で落ち着かないかもしれないが、ゆっくり休んでくれ」
「いいえ。お礼を言いたいのは私の方。京都はちゃんと回れたことがなかったから、今日一日回れて楽しかったわ」
その気持ちに嘘偽りはない。ただ、ここまで心が揺さぶられたのは想定外であって、来ない方が良かったのかもしれないという若干の後悔は芽生えつつあった。

「手を繋ぐ以上のことはしないつもりだったんだが……」
赤司は一歩、二歩とに近づくと、ふわりと抱きしめた。そして軽く体重をかけられたの身体は傾き、背中からベッドへ倒れ込む。は覆いかぶさるように赤司に抱きしめられた。
「キミが好きなんだ。どうしたらオレのものになってくれるのかな」
耳元から聞こえてくる掠れた声に、鼓動の速さが一気に増し、の胸は大きく上下する。
赤司はの肩に埋めていた顔を上げ、を見つめた。
この先の展開が容易に想像できては身構えたが、赤司は何もせず身を起こした。
「すまない。オレは部屋に戻るよ」
も釣られて上半身を上げて出て行こうとうする赤司の背中を視線で追った。
「どうして何もしないの?」
その問いかけに赤司はぴたりと止まり、振り返る。
「今、オレがキミに手を出したら、キミは泣くだろう?」
それから赤司はお休みと告げて部屋を出ていった。

パタンとドアが閉まり、静寂に包まれる。
赤司は振り返り際、の方は見ていなかった。その視線の先にあったもの……それはサイドテーブルの上のネックレス。
「……ばか。手を出さなくたって泣くよ」
はベッドの上で膝を抱えうずくまった。


赤司とともに過ごす時間が増えるたびに赤司を想う気持ちが増していく。
いけないと思うのに傾いていく心。それを止める術を、は知らない。





そしてついに迎えた卒業式。
それぞれが新しい門出を祝う涙の中、と高尾だけが他とは違う色の切なさを帯びていた。
それは二日前の卒業式予行練習の日まで遡る。
人気のない昇降口でたまたま高尾が後輩の女の子から告白されている現場に居合わせてしまった。もちろん、身を隠して息をひそめていたのだが、二人がどんな顔してるのかが簡単に想像できてしまって胸が苦しかった。

「……悪い。オレ、今は恋愛とか考えられないんだわ」
さん……ですか? あの噂は本当だったんですね」
高尾の返答はなかったが、きっと切なそうに微笑んでいるのだろう。
さんを悪く言うつもりはありませんけど、先輩を振ったなんて信じられないです」
「悪いな。しばらく忘れられそうにないんだ」
「あっ、いいんです。先輩たちが別れたのには驚きましたけど、別れなくても私の気持ちは伝えるつもりでいたんです。だから、謝らないでください。……先輩はさんを好きでいてください」
「ありがとう」

そう。さらにこの一週間前には高尾に別れを告げていた。ほぼ一方的に「別れよう。もう一緒にはいられないの」と。
当然、高尾は理由を訊いてきた。だが、は「別れよう」の一点張りでそれ以外の言葉は口にしなかった。

そんな身勝手でひどい振り方をしたというのに、高尾が告白されている現場を見てしまった今、を支配している感情は嫉妬だった。振ったくせに高尾の気持ちがこちらに向かなくなるのが気に入らないのだ。
―― 私、最低……。
告白した後輩はそのまま校舎を出ていった。片や高尾は校舎に戻ってきた。そして陰に隠れていたを見つけて目を見張った。
? ……って、何でが泣いてんだよ。……普通逆だろ?」
の瞳からは静かに涙が零れていた。
知ってる。高尾の方が泣きたい気持ちだってこと。こっちが泣く権利なんてないことも知ってる。それでも溢れる涙を止めることはできなかった。
高尾への気持ちを断ち切るなんて無理だった。でも、赤司に惹かれてしまったことも事実。今更、後戻りなんてできない。
「なぁ、やっぱり」
「だめっ。私と和成は別れたの。その事実は覆らないのっ!!」
それが強がりとわかっていながら叫んだ。
「……私、卒業式が終わったら東京を離れるから」
そう言うと高尾は何か言いたげに口を開きかけたが、声を聞くよりも先には駆け出してその場から離れた。
高尾のことは今でもきっと好き。そうでなければこの感情に説明がつかない。でも、もう高尾だけを想い続けることはできない。永遠に……。

卒業式を終え、それぞれの教室で最後のホームルームを行い、全てが終わったあとはそこかしこで別れを惜しむ声が上がった。
も友人たちと卒業アルバムに寄せ書きし合い、別れを惜しんだ。だが、高尾とは話すこともなければ目を合わせることもなかった。友人たちも気を遣ってくれたのか、誰も高尾のことは口にしなかった。


高校で過ごした三年間は最高に楽しかった。友人にも恵まれて、文句のつけようがないくらい振り返れば充実した日々だった。
そうやって綺麗な想い出として残るはずだったのに、後になって思い出す高校時代は苦い気持ちばかりだった。





卒業式の数日後、は再び京都の地にいた。
赤司に京都を案内してもらったあの日から卒業式までの間、は父に後期日程で京都市内にある大学を受験したい旨を伝えて再度試験を受けていた。
結果は見事に合格。そしてすでに合格をもらっていた都内の大学への入学は辞退した。
はカバンから携帯を取り出し、まだ一度も掛けたことない番号を鳴らした。
後戻りはできない。遠く離れたこの地であれば、少しずつ気持ちは薄れていつか忘れる日が来るだろう。
そう信じて……。


「驚いた。まさかいきなり訪ねてくるとは思わなかったよ」
「そう?」
電話を掛けた先は赤司。これからお邪魔したいと伝えるとひどく驚いていたが、快く了承してくれた。断られるとは思っていなかったが、仮に断られたとしても、には京都で帰る場所がすでにできていた。
「こっちの大学に入学することにしたの。市内でマンションを借りたわ」
そう告げると赤司は目を見張った。そしてへ手を伸ばす。
の肩にかかる髪を払いのけ、首元を晒し出す。赤司と会う時はいつもそこに下がっていたはずのネックレスが……今はない。
「別れたの」
その言葉が意味するもの。それ以上の言葉は必要ない。
しばらく見つめ合った後、赤司はその手を後頭部へ回し、一気に引き寄せると有無を言わさぬ勢いで唇を塞いだ。
初めて交わすキスだというのに、舌が絡み合い吐息が漏れるほど激しかった。あまりの激しさに目が眩み、足元もおぼつかなくなる。は唇が離れると赤司にもたれ掛かってしまった。
「今晩は泊まっていくだろう?」
「……えぇ」
赤司はその返答に満足そうに微笑むと、自身にもたれ掛かるの腰に手を回し、反対の手で顎を持ち上げ上を向かせると、再びその唇を奪った。


の恋人は高校の同級生。の高校の想い出には必ずその存在が付きまとう。故に赤司はの高校の話を訊こうとうはしなかった。もまた、赤司の過去は詮索しなかった。
それが最大の過ちであると気づかぬふりをしながら。



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ちょっと無理のある展開だったかもしれません。
2016.03.03