浅い眠りから目を覚ますと、気怠さを感じては顔をしかめた。
見慣れない天井にいつもと違う寝心地。ぼんやりした意識の中、右頬に吐息が当たるのを感じた。
―― 和成……。
この気怠さは高尾からもたらされたものだ。
高尾はの知っている高尾よりもずっと逞しく、そして大人の男性になっていた。知らぬまに高尾が変わってしまったことに、ほんの少しだけ寂しさを覚える。
高尾は大学生活をどう過ごしてきたのだろう。社会人になった今でもバスケは続けているのだろうか。
はぐるぐると高尾のことを考え出した。
―― 私、どうして和成と別れたんだろう? どうして征十郎さんを選んだんだろう?
赤司の何に惹かれたのだろう……。
は気怠さを感じる中、記憶を四年前まで遡ってみた。
そう……あれは、高校三年生の一月の半ば頃。
※
高尾はスポーツ推薦で進学先を決めていたが、は受験勉強の佳境に差し掛かっていた。
この頃の放課後はいつもは自習室で勉強、高尾は体育館で後輩たちに指導をしながら軽く汗を流していた。そしてキリの良いところで待ち合わせをして二人で帰る。そんな日々を過ごしていた。
高尾はずっと部活で忙しかったのもあり、こうして毎日のように二人で帰るのは初めてのことだった。
嬉しい反面、やっと長く一緒にいられるようになったのに、その時間はわずかしか残されていないという現実が寂しかった。
二人で帰る時は少し遠回りをして公園を歩くことが多かった。園内はくねくねした細い道から始まり、脇にはテニスコートや陸上トラックがある。それらを通り過ぎるとひらけた中央に出る。たまにそこにあるベンチに並んで座って、自販機で買ってきた温かい飲み物を飲んだりしていた。
その日も二人はベンチに座っていた。
温かい飲み物は外気に触れ、どんどん冷たくなっていく。冷え切ってしまう前にさっと飲み干し、近くにあるくずかごに缶を投げ入れる。はよく外していたが、高尾は百発百中に近い命中率だった。
いつもならが外した缶を拾ってくずかごに入れるタイミングで高尾も立ち上がって帰るのだが、その日は違った。
高尾は手招きをしてをもう一度ベンチに座らせた。
「これ」
と言って高尾はカバンの中から小さな包みを取り出した。
は「えっ?」と声を上げ、高尾と包みを交互に見る。
「遅めのクリスマス……とでも思って。クリスマスの時期は毎年ウィンターカップで何もできなかったから」
それは小ぶりな花をモチーフにしたシンプルなネックレスだった。
「かわいい……」
これなら普段から身につけていても目立たないから良さそうだ。
「貸してみ。つけてやっから」
ちぃと寒いけど我慢してな。と高尾はからマフラーをはぎとり、ネックレスを首に回してくれた。ひんやりとした金属の感触に一瞬寒さが増したが、すぐに体温と馴染んで温かみを持ち始めた。
公園のわずかな明かりで映し出された高尾は、優しさと寂しさを織り交ぜたような微笑みを浮かべていた。
受験なんて早く終わってしまえばいいのに。そうすれは何のプレッシャーも感じずに高尾と一緒にいられる。そう思う反面、永遠に終わらなければいいとも思う。
受験が終わるということは即ち卒業。二人のその先の道は重なっていない。受験が終わらなければ卒業もしない。卒業しなければ高尾と離れることもない。
矛盾した叶うはずのない願いだとわかっていても、そう願わずにはいられなかった。
だって、何よりも高尾が好きだから……。
「ありがとう。大切にするね」
そして軽く触れ合うだけのキスをした。
たとえこの先の道が分かれていたとしても、この気持ちだけは永遠だと、そう信じていた。
高尾と別れ、帰宅すると玄関に見知らぬ靴が二足並んでいた。応接間からは数人の話声が聞こえてくる。そのうちの一人は父の声だとわかった。
こんな時間にお客さん? と小首を傾げながら自室のある二階へ上ろうとした時、応接間から父が顔を出した。
「。着替えが済んだら下りてきなさい」
「えっ、私が? ……わかったわ」
父がこうして客人の前にを出すのは珍しい。四つ上の兄は家次期当主として幼い頃から人前に出されていたが、は比較的自由の身だった。秀徳高校もの意志で選ばせてもらえた学校だった。
今までと違う雰囲気に疑問を抱きながらも、着替えを済ませたは応接間のドアを叩いた。
中へ入ると、父の正面には親子に見える客人が二人。は二人と向かい合うように父の隣に座った。
「紹介する。赤司家現当主と子息の征十郎くんだ」
は目をすっと細めた。
―― 赤司家……。
この世界でその名を知らない人はいないだろう。もちろんも知っている。
なぜこれほどの人たちがうちに? という疑問が浮かんだ。
「彼は学生時代の私の友人なんだ」
「そう……なんですか。娘のと申します。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げると、二人も丁寧にお辞儀を返してきた。
そこからはひたすら当主同士の会話を隣で聞いているだけだった。時折、話を振られて返事をしたり相槌を打ったり。それは向こうの子息も同じであるようで、最初に挨拶をした以外はほとんど無表情で「はい」と答えるだけだった。
は居心地の悪さを感じ始めていた。
何かがおかしい。学生時代の友人とはいえ、二人はここ数年はほとんど会っていなかったらしい。それだけに会話が盛り上がっているのはわかるのだが、その内容はほとんどが たち子供のことだった。
「以前、写真で見た時よりも征十郎くんは立派になっていて驚いた」
とか、
「さんも女性らしさが増して美しい」
とか、むず痒くなるようなことばかり。
―― どういうこと? 何のために私はここに呼ばれたの?
当主に対して挨拶するのはわかるが、なぜその子息にまで……。
―― まさか……!
は自分の考えついたことに身震いした。
そんなことがあるのか……? いや、あるに決まってる。現にの兄には何年も前から相手が決まっている。だけどそれはこの家の跡継ぎであるが故で、自分にはさほど関係ないことだと思っていた。自分は将来この家を出ていくのだから自由なのだと。
―― 私はばかか。
たとえ家を出たとしても、それは決して自由が約束されるわけではないと、なぜ気づかなかったのだろう。
「あの……まさかと思うけど、私たちに結婚して欲しいということですか……?」
二人の会話を割り、おそるおそるは問いかけた。
不安要素はさっさと潰してしまった方がいい。勘違いであるのならそれでいい。そうであって欲しい。取り越し苦労で構わないから……。
だけど、現実は優しくなかった。
「正直に言えば、そうだ」
そう父から答えが返ってきて、の目の前は真っ暗になった。
「私たちの間ではかねてよりそう話していた。だから今までを引き合いに出さなかったんだ」
なんて惨い現実なのだろう。それを今まで自由と勘違いして……。
いっそのこと、引き合いに出されていた方がずっと良かった。そうすれば甘い誘惑に心を震わせることもなかった。
―― 和成……。
先ほど公園で別れたばかりの高尾の顔が頭に浮かんだ。ずっと一緒にいたいと願ったのに。
「そろそろに話さなければと思っていたんだ。もちろん強制するつもりはない。だが、ちょうど良い機会だから二人で話してみなさい」
父は赤司家当主に目配せをすると、二人は頷き合って立ち上がった。
「私たちは別室で仕事の話をしてくる」
応接間に子供同士が取り残された。しばらく無言だったが、赤司が先に口を割った。
「キミも大概だね。黙って気づかない振りをしていればやり過ごせたかもしれないのに」
はキッと赤司を睨みつけた。そんな後悔はとっくにしている。
「あなたはこの話をご存じだったのですか?」
「いや、先ほどキミが啖呵を切った時に初めて知ったよ」
それなのにこれほど落ち着いているのか。赤司の放つただならぬオーラには一瞬おののく。
しかし、尻込みしている暇はない。父は強制するつもりはないと言っていた。つまり道は決して閉ざされたわけではないのだ。
「あなたも不本意であるならそう仰ってください。それで私が傷つくことはありませんから。二人で抗議の声を上げればきっと……」
「キミは傷つかないかもしれないが、オレは傷つくかもしれない」
遮るように赤司は言葉を重ねた。
「……どういうことですか?」
赤司は立ち上がるとの正面まで行き、身を屈めての頬に手を伸ばしてそっと包み込むようにその手を添えた。
「誰も不本意とは言ってないだろう?」
そして空いている方の手をの首元に伸ばした。そこにはまだ外していない高尾から貰ったネックレスが揺れている。
「つき合っているのか?」
「えぇ……。彼が好きなの。……とても」
「キミを想ってキミの都合を汲むのなら断るのだが、キミに惹かれ始めているオレにはできそうにない」
そう言うと、ふわりと抱きしめられた。
突然の抱擁に驚きすぎて声を上げることができなかった。だけどそれ以上に先ほどのノーフェイスはどこへいったんだ? というほど優しく微笑まれ、動くことができなかった。
心臓が激しく主張し始め、呼吸が深くなる。動揺とは違う高鳴りを感じては戸惑った。
「どうして……」
―― 私なんかを?
「人を好きになるのに理由はいるのかい?」
音にならなかった問いかけの答えは、耳元から返ってきた。
※
赤司と会ってから二週間が過ぎた。その間、高尾とは変わらず過ごしていたが、赤司のことがずっと頭から離れなかった。
そしてとうとう受験も終わってしまった。二日前に合格通知が届き、昨日学校に合格の旨を伝えてきた。進学先が決まると翌日から登校日として定められている日以外は学校へ行く必要がなくなる。その翌日に当たる今日からも学校へは行かなくなっていた。
高尾も最近は学校には行っておらず、放課後だけ体育館へ足を運んでいるという。
今なら高尾に会いたい放題なわけなのだが、はどうしても高尾に連絡を取る気が起きなかった。というよりも、今、高尾と会っても他に気が散ってしまい、高尾に不信感を抱かせてしまいそうだった。
は自室のソファに身を沈め、読書にふけっていた。音のない世界でページを捲る音だけが聞こえる。これが余計なことを考えずに集中できる唯一の方法だった。
集中して読んだ本は思った以上に読み終えるのが早く、はテーブルの上に本を置くと大きく伸びをした。
さて、続きを取ってこようか。あと紅茶も淹れようかな。そう思って置いた本に手を伸ばしかけた時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「はい、どうぞ」
控えめに開いたドアの先にいたのはこの家の使用人だった。
「さん、赤司様からお電話が入ってますが、いかがいたしますか?」
「えっ……父ではなく私に?」
「はい」
伸ばしかけた手はぴたりとそこで止まった。
それは当主ではなく、息子の方からということなのだろう。あの時、携帯番号の類は交換していなかったから、連絡を取るとしたら家電に掛けるしかないのだが。
あの時は結局、抱きしめられただけでそれ以上の話の進展はなかった。
―― どういうつもりなのかしら?
居留守を使って拒否するのも手ではあるが、保留にして待たせてしまってるあたり、が在宅してると言ってるようなものだ。
「わかったわ」
は使用人の手に握られている子機を受け取り、使用人が退室するのを確認してから保留を解除した。
「……はい」
『どうも。二週間ぶりかな』
「えぇ。そうですね」
電話の向こうから聞こえてくる朗らかな声。あの時と同じように優しい微笑みを浮かべているのが想像できて胸が締めつけられた。
「よく私が在宅してるとわかりましたね」
『大体わかるさ。そろそろ受験が終わる頃だろう? それで一つ提案なんだが、明日、一緒に出掛けないかい?』
「えっ……」
出掛けるって、これはつまりデートのお誘いというやつなのだろうか。
―― でも、私は……、
もう一度赤司に会ってみたいという気持ちがある反面、その後、高尾にはどう顔向けすればいいのだろうという葛藤が数秒の間に巻き起こる。それに、赤司と会ってるところを誰かに見られでもしたら、たまったものじゃない。
『もし、躊躇ってる理由が”場所”であるなら、京都へおいで』
「京都?」
突拍子のない地名には眉間に皺を寄せた。
『うちの別邸が京都にあるんだ。今はそこで生活をしている。京都なら誰かに見られる心配もないだろう?』
全てお見通しというわけか。確かに京都であれば懸念する要素はだいぶ減る。それでも躊躇いは覚えるが、行っても行かなくてもどのみち後悔が付きまとうのは目に見えていた。
「……わかりました。明日、伺います」
『ありがとう。それで時間だが……』
あとにして思えば、この時にはすでに取り返しのつかないところまで歯車は歪んでいた。
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2016.02.24