マルガリーテス

「好き」と「嫌い」を繰り返して無惨に散る花びら

これは過去の記憶。
二度と触れてはならないと、無理やり封じ込めた幸せだった頃の記憶。


桜が咲き誇る季節、期待と不安を胸に抱き、真新しい制服に袖を通した。
初めて足を踏み入れた教室からは、校庭の桜を眺めることができた。校内に教室は数あれど、ここまで間近で鑑賞できるのはこの教室くらいだろう。、
その教室でと高尾は出逢った。

ここ秀徳高校はバスケが強い。ということは受験する前から知ってはいた。だが、知っていたのはただそれだけであり、自分と同い年に”キセキの世代”と呼ばれる十年に一人の逸材が五人もいることも、その一人がこの学校に入学してクラスメイトにいるなんてことも、全く知らなかった。

「あいつだろ? バスケでキセキの世代って言われてんの」

そんなささやきを耳にして、クラスメイトの緑間真太郎がすごいプレイヤーなのだと初めて知った。
しかし、だから何だという話である。
バスケは体育の授業でするもの。のバスケに対する認識はその程度のものだ。

クラスどころか学校単位で緑間をはやし立てる中、の関心は違うところにあった。

「真ちゃーん」

聞き方によってはだらしなく聞こえてしまいそうな声の持ち主。緑間の傍をちょこまかしている高尾和成である。
彼もまた、緑間と同様に入部早々レギュラーの座を勝ち取った実力者だ。

初めて疼き出した己の恋心に気づいた時、計り知れぬ高揚を感じた。
目が、耳が、高尾という存在を追いかける。
それだけで日常と化した学校が神聖な場所に感じられた。

あとになって思う。どうしてあの時、身の上のことをきちんと考えていなかったのかと。
ただその時はひたすら、華やかな高校生活を送ることで頭がいっぱいだった。


高校生活が始まって半年ほど経った頃、席替えで緑間と隣の席になった。
これがきっかけで、それまではただ同じ教室にいるだけだったクラスメイトの高尾との距離がぐっと縮まった。
高尾が緑間に話しかけるついでに、にも話しかけるようになったのだ。
話すようになって、想像以上に弾む会話に、どんどん高尾の魅力に引き込まれていく。
もうどうしようもないくらい高尾のことが好きだ。そう思った時だった。

緑間が席を外していないところに高尾がやってきて主のいない席に座った。
それはもう、あたかも自分の席であるかのようにのけ反りながら。
「真ちゃん、どこいったんだろ? 宿題のノート見せてもらいたかったんだけど」
「またやってこなかったの? 私ので良ければ見せようか?」
これは普段からよく交わしている会話だった。これが普段通りであれば、「えっ、いいの!? サンキュ! ちゃん!!」と悪びれた様子も見せず、のノートを受け取るのだが、この日は違った。
少しの沈黙の後、
「なぁ、オレとつき合わなねぇ?」
と何の脈絡もなく告げられた。

何を言われたのかを理解するまでにとても時間がかかった。
きっと、この間のの顔は、ひどく呆けたものだっただろう。
そしてその言葉に躊躇う理由がどこにもなかった。”どうしよう”とか、”信じられない”なんて考える間もなく、気がついたら
「うん、つき合う」
と答えていた。
好きだと思ってた人が自分のことも好きでいてくれた。その事実が何よりも嬉しくて、ただひたすら浮かれていた。

これがと高尾の馴れ初め。
高校一年。十月のことである。
金木犀の香りに包まれながら、ふわふわと胸を躍らせていた。
だからだろう。あとになっても金木犀の季節が訪れるたびに、あの瞬間を思い出すのは。


永遠なんて夢物語だ。ある程度、歳をを重ねれば誰だってそう思う。
だけど永遠を願わずに始める恋などあるのだろうか。
夢物語だと知ってはいても、己の気持ちは未来永劫なものだと誰もが信じたいものだ。

も例外なく、高尾へ向ける気持ちは本物だと信じていた。この気持ちは永遠に色褪せることなどないと。
それはまだ青臭い高校生だからそう思えたのか。
これがあと十年先の出来事なのだとしたら、そんな未来はあり得ないとあざ笑うことができたのか。
もし、過去に戻ることができるのなら、一般家庭の子として生まれたかった。それが叶わないのなら、せめて出自だけでも高尾に伝ておきたい。

そう。全ては家がいけないんだ。由緒ある家なんかに生まれたから……。
そうやって逃げ道をつくって生きてきた。
本当は家なんて関係なく、自身が揺らいで高尾の心を裏切っただけなのに。





高尾に待ち伏せをされてから約一ヶ月。
先週、梅雨が明け、季節はすっかり夏へと移り変わっていた。
仕事は忙しさが増して、の帰りは連日深夜になることが多くなっていた。
ただ、最近の疲労は単に忙しいからというわけではないことを、はひしひしと感じていた。
精神的疲労は肉体的疲労へ及ぼす影響が大きい。

近頃はどこから話が漏れたのか、が赤司家当主の子息の婚約者だという噂が社内で広まっていた。
もちろん事実ではあるのだが、好機の目に晒されるのは精神的にどっとくる。
「ほら、あの子だよ。右手に指輪してるじゃん。きっとあれ、彼から貰ったのよ」
そんな声が聞こえてきたのは一度や二度ではない。
これが嫌だったから、赤司とのことは大っぴらにはせず平社員として就職したというのに。
おそらく事の発端は、事情を知っている上層部の人間のに対する態度や、新人のくせに大きな仕事を任せてくるところからなのだろう。
それに加えて……、

―― いつまでこんなことを続ければ良いの?
は最寄り駅……ではなく、その一つ手前の駅で降りていた。
高尾には最寄り駅が知られてしまっている。あの時の素振りからして、また張られていてもおかしくないと思い、以降、一つ手前の駅で降りてタクシーで帰ることが多くなっていた。
もちろん赤司には知られたくないことなので、いつもというわけにはいかないのだが。
そんなこんなでダブルどころかトリプルで打撃を受けている状態で、精神的疲労は限界値を大きく超えていた。


今日は週末で良かった。明日は赤司も休みだと言っていたし、心置きなく寝坊しよう。
そう油断していたのが悪かったのかもしれない。
いつも通り、タクシー乗り場へ向かっていると、建物の外壁に寄りかかっている高尾の姿が見えた。
思わず悲鳴を上げてしまいそうなほど驚き、とっさに引き返そうとしたのが、高尾の方が先にこちらの存在に気づいてしまった。
「よっ、おかえり」
「……どうしてここに?」
一瞬にして喉から潤いが消えた声は掠れていた。
「カンってやつ? ……っていうのは嘘で、まぁ、考えてみればわかることだろ? は俺を避けたい。だけど俺には最寄り駅を知られている。そしたらもう、とる行動なんて限られているだろ」
とは言え、本当に会えるかどうかは賭けだったのだろう。
高尾はの行動全てを把握しているわけではないし、高尾自身の都合もある。もしかしたらここでこうして張っていたのは、今日だけではないのかもしれない。
「どう? 会えなかった間に少しは俺に気持ちがなびいてくれた?」
―― あぁ、もう。これだから会いたくなかったんだ。
京都で過ごした四年間。赤司で上書きされたはずの感情が反逆を起こし始めてる。否、それはもう深いところまで及んでいるのに気づかないふりをしているだけ。
一瞬の気の迷いで、高尾の胸に飛び込んでしまいそうになる。

いつもならこれくらいのタイミングで赤司が連絡をくれるのに、今日に限って携帯は何の着信も告げない。
は一度ぎゅっと目を瞑った。手を握りしめれば、指に食い込む指輪の感触。
―― ダメ。流されてはいけない。
流された先に幸福など待っていない。それは高尾を振った時に痛感しているではないか。
「困るわ。どこまで追いかけてくるつもりなの?」
なるべく高尾の目を見ないように声を絞り出し、高尾の脇を通り抜けようとした。
しかし、すれ違いざま、手首を掴まれてそれは阻まれた。
「やだっ、離し……」
声を上げ、その拘束から逃れようとした。ところが高尾の手は想像をはるかに上回るほど弱々しく、震えてさえいた。
これならの力でも簡単に振り払える。それなのに、あまりの弱さに、その儚さに、振り払うことができなかった。

高尾のこんな弱さは知らない。想像に反する出来事が起きた時、どう対処したらいいのかわからず動揺してしまう。
「……かっこ悪いだろ? 必死に虚勢張ってっけど、ほんとは怖くてたまんないなんて口が裂けても言えねーよ」
目を見ないようにしていたはずなのに、気がつけばしっかりと視線は絡み合っている。
結局、手は払わずとも高尾の方から離してくれた。しかし、その手は下ろされたわけではなく、の肩をぐっと押した。
どうしてこういう時に限って壁際にいるのだろう。
の背中は壁に当たり、目の前は高尾でいっぱいになる。
次第に高尾の顔が近づいてくる。逃げようと思えば簡単に逃げられるのに、高尾から目を反らすことができない。
そして唇が重なった。

はじめは軽く確かめるようなキス。一度離れて次は深く貪るようなキス。
かつて、大好きだったこの唇と温もり。あの頃に戻ったみたいに甘い誘惑が手を招く。
このまま、溺れてしまいたい。
そんな夢心地に包まれてた時だった。
……何、してるんだい?」
身も心も凍らすような声が聞こえたのは。
その瞬間、世界が暗転した。冷たい声なのに、そこには全てを焼き尽くしてしまいそうなほどの憤りが込められていた。
高尾の唇が離れ、おそるおそる声のした方へ顔を向ける。
そこには温度を失くした赤司の姿があった。


は目を見開き、信じられないものを見てるかのように固まった。
「キミにそんな顔をされるのは心外だな」
「……どうして」
「ここがわかったのかって? タクシーの領収書だよ。机の上に置きっぱなしになってたからね」
そうだ。昨晩、あとで処分しようと思って机の上に出したまま寝てしまったんだ。普通に処分したのでは赤司にバレてしまうと思っての行動だったのに、それが裏目に出てしまった。

しばらく赤司はと対峙していたのだが、赤司はその視線を高尾へと移した。
「……久しぶりだね」
えっ? と思って赤司の視線の先、高尾を見ると、高尾も以上に信じられないものを見ているかのように極限まで目を見開いていた。
「まさか、の相手って赤司なの……?」
その言葉には再び驚く。
―― どういうこと? 和成と征十郎さんは知り合いなの?
しかし、その疑問を投げかけることは許されなかった。
赤司は高尾からひったくるようにの手首を掴み、強い力で引いた。
「帰るよ」
冷やかな一言とともに、赤司は引きずるようにを引っ張る。掴まれた手から赤司の怒気が全身に伝わってくる。
抵抗することも抗議の声を上げることも許されない恐怖。
はその手に引かれ、ただひたすら赤司について行くことしかできなかった。


先ほどいた駅から自宅までは歩いて約二十分。その間、ずっと無言では引きずられていた。
そして帰宅するなり、まっすぐ寝室に連れて行かれ、乱暴にベッドに放り投げられた。
とっさに身を起こそうとしたが、それより先に赤司に上に乗られ、噛みつくように唇を塞がれた。無理やり舌をねじ込まれ逃げるの舌を絡み取る。
両腕をしっかりと上から押さえ込まれ、身動き一つ取れない。
暗がりの中、鋭く光る瞳が見えた。
―― 怖い……。
赤司はいつだって優しくて、温かく包み込んでくれた。それなのに……、
今、目の前にいるのは一体誰? こんな赤司は知らない。


「和成と、知り合いなの?」
ようやく息を整える間ができた時、はずっと疑問に思ってることを口にした。
だが赤司はすっと目を細め、より憤りを強めた。
「キミが知る必要はない」
「っ……」
そして性急にシャツと下着をたくし上げられ、露わになった胸を鷲掴みされた。
一方で唇は再び塞がれ、吐息のような声だけが漏れる。
だけど、そこには一ミリの甘さも含まれていない。
「やっと、キミを手に入れたというのに……。逃げても逃がさないと言ったはずだ。俺から離れていくなど決して許さない」
―― 何を……言ってるの?
絶対服従を思わせるその言葉にただならぬ恐怖を覚え、の目から静かに涙が零れ始めた。
この四年で赤司とともに積み重ねてきたものが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
赤司は、がただそばにさえいれば、それでよかったのだろうか。一緒にいるのなら、ましてや将来を約束するのならなおのこと、心もともにありたいと思う。それが叶わないのなら、一人でいる方がずっとマシだ。
―― でも、私が悪かったのよね……。
あの時、高尾のキスを受け入れてしまったのだから。
確かに高尾と再会して再び高尾に惹かれていく気持ちがあることは自覚していた。それは許されないということも。
高尾に会うたびにあふれ出てきて抑えきれない感情をいつも沈めてくれたのは赤司だった。だけど今は……その赤司から逃げたいと思ってしまった。

の目からはとめどなく涙が流れる。はじめのうちは抵抗していただが、次第に抵抗することをやめ、されるがままに身体を横たえていた。顔からは表情が消え、能面のようになる。その冷やかな瞳に赤司の動きが一瞬止まった。
その隙には赤司を押しのけ、素早くベッドから抜け出した。そして乱れた服を適当に直し、カバンを掴む。
「ごめんなさい。私はあなたの望む私にはなれないみたい」
それだけを言い残して部屋を飛び出した。
部屋に取り残してきた赤司のことも明日のことも、今は何も考えたくなかった。


勢いよく飛び出してきたのはいいものの、には行く宛てなどなかった。
ふらふらと夜道を彷徨い歩き、気がつけば駅まで来ていた。一つ手前の駅……ではなく、最近はあまり使わなくなっている最寄り駅の方だ。
その間、の目から涙が止まることはなかった。
駅の改札からは次から次へと人が溢れ出てくる。
これから終電にかけて、どんどん人は増えていくのだろう。今日は金曜日だ。

これからどうするか。選択肢は二つ。
一つはこのまま赤司の待つ家へ帰る。これは絶対にない。
もう一つは実家へ帰ること。今が夕方ならどうとでも理由をつけて帰るのだが、さすがにこんな時間に急には帰れない。
残るは第三の選択肢。
はカバンから携帯を取り出した。電池はひん死状態だったが、一回くらいの通話なら大丈夫だろう。
ロックを外し、ダイヤルの画面を開いて番号をタップした。
その番号は電話帳にはもうない。四年前に消してしまったから。だが、一度覚えてしまった十一桁の番号は今でも忘れておらず、指は躊躇いなく数字の上を滑った。
数回のコールの後、プツッと繋がる音。
『……、だよな?』
一時間ほど前に一つ手前の駅に置き去りにしてきた高尾。
向こうもまだの番号を覚えていたのか、電話帳にまだ名前が残っていたのか。それはわからないが、電話は繋がった。
だが、何を伝えたらいいのかわからず、は無言で携帯を耳に当てたまま握りしめた。
『泣いてるのか?』
気配と息遣いが伝わってしまったのだろうか。しばらく無言でいるとそう訊かれた。
『今、どこにいる?』
「……駅」
『わかった。そこから動くなよ』
そう言って携帯の向こうから息遣いが荒くなる気配が窺えた。会話は何もない。だけど、電話は繋がったままだった。
も何も喋らず、携帯を耳に当てたままその場にしゃがみ込んだ。


それから十分ほど経った時だった。
っ!」
携帯の向こう側とすぐ近くから名前を呼ぶ声が聞こえた。
視線を上げれば、高尾がこちらへ駆けてくる姿が見える。
……、何でそんなボロボロなんだよ……って訊くだけ野暮か」
高尾はの腕を引いて立ち上がらせた。その服も髪も決して身ぎれいとは言えないほど乱れていた。
そしてそのまま駅の改札へと向かう。
「二四十円。ある?」
は無言で頷き、カバンからICカードを取り出した。



この春から一人暮らしを始めたという高尾の自宅マンションの最寄り駅は、の最寄り駅から二十分ほどの場所だった。同じ路線上にあり、想像以上に近くて驚いた。
家に着くと高尾はお風呂を準備してくれた。ゆっくり湯船に身を沈めるとボロボロだった心がほんの少しだけ和らいだ気がした。
これからどうなるのか、これからどうするのか。考えなきゃならないことは山積みである。
はぶくぶくと口元まで湯船に沈ませた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。歯車が狂い始めたのはいつから? そもそも最初からかみ合っていなかったのかもしれない。高尾と出逢ったその瞬間から。
―― 私は、誰が好きなのだろう?
高尾が好きだった。じゃあ今は? 赤司が好き? ……わからない。一緒に過ごしてきて安らいでいたことは確かなのに、今はそれすらも全て夢だったように思ってしまう。
―― こんなしがらみ、嫌。
もう何度繰り返してきたかわからない。は己の身の上を呪った。


長い一日がようやく終わろうとしている。
が上がると、高尾も続けて入浴を済ませた。
はジャージのズボンにTシャツという恰好になっていた。ジャージは以前、高尾の妹がここに来た時に置いていったものらしいが、Tシャツは女物がなかったため、高尾のものを借りた。もちろんダボダボである。

高尾はにそっと近づいた。は何の反応も示さなかったが、拒否する様子も見せなかった。
そして唇を重ねた。触れ合いながら手を後頭部へと回し、しっかり押さえ込んで深く口づけた。体重をかけると、の身体はあっさりと後ろへ倒れていく。
「……悪いけど、止まんねぇからな」
受け入れたいわけではない。ただ、拒む理由もなかっただけだ。
は一人、そんな言い訳を頭の中で繰り返した。



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2016.02.24