ある休日の昼下がり、は住宅街を歩いていた。
今年の春はもう間もなく終わりを告げる。世の中は初夏の陽気に包まれていた。そろそろ紫陽花が花開く季節だ。
朝、目覚め、今日も仕事だという赤司を見送った後、窓を開けると心地良い風が頬を撫ぜた。
―― 気持ち良い……。
洗濯と掃除を午前中のうちにさっと済ませ、堪らずは外へ飛び出した。
外へ出ることに対する不安要素は多分にある。だけど、今日は何よりも気分がよかった。
絶好のお散歩日和。こんな日に家に閉じこもってるなんてもったいない。
足取りは軽く、普段は見過ごしてしまう道端の草花たちも、今日はによく顔を見せてくれる。
そのまま住宅街を突き進み、公園に出た、
高校の頃、よく歩いていた公園。
その公園は、思っていたよりも花壇が多いことに気がついた。
あの頃は陽が沈んでから歩くことが多かったため、今日のように明るい景色は見慣れていなかった。
園内のくねくねした道を進んでいくと、中央の開けた場所に出る。こんなに天気が良いというのに、人は少なかった。何らかのパフォーマンスの練習をしている学生が数人と、ランニングの休憩をしている婦人。と同じように散歩をしている老夫婦。ざっと見渡す限り、そんな人たちがいた。
は空いてるベンチに腰を下ろした。
瞳を閉じて柔らかい風に身を任せる。
気持ちが良すぎて、このままうたた寝してしまいそうだ。
さて、今晩のご飯は何にしようかな。懐かしさついでに学校のそばのパン屋さんにでも行こうかしら。あのお店のラスク、サクサクしていて美味しいのよね……。
そんなことを考えている時だった。
「……?」
唐突に名前を呼ばれたのは。
その懐かしい声には肩を震わせた。
ただ、懐かしさに震えたわけじゃない。心の奥底に眠っているパンドラの箱をこじ開けるような甘く切ない響きに震えた。
おそるおそる瞳を開き、視線を上げる。
「やっぱりだよな。すっげー久しぶり」
「和成……」
喉から絞り出すように出た声は、頼りなく掠れていた。
「隣いい?」
高尾はの横の空間を視線だけで示してきた。
「えっ、えぇ。どうぞ」
は目を泳がせながら、ベンチの端に寄った。わざわざ動かなくても人一人くらい座れるスペースはあったのだが、何となく、そうしてしまった。
そして高尾はその広々としたスペースに腰を下ろした。
他人にしては近く、親しいにしては遠い微妙な距離。この距離が今の二人の関係を示しているようだ。
高尾は高校の頃の恋人だった。
この公園を一緒に歩いたのも、パン屋に一緒に立ち寄ったのも高尾。三月に赤司と行った今にも潰れそうな喫茶店に一緒に行っていたのも高尾。高校の頃の記憶には、必ずと言っていいほどの隣に高尾がいる。
色鮮やかに記憶として残り、いつまで経ってもきれいな想い出にはなってくれない想い。
どうして今目の前にいるの?
―― それは私が浮かれて外に出たから。
あれだけ心地良いと思っていた陽気が今は恨めしくて仕方ない。
ただ、今は動揺していることを一ミリも悟られたくなかった。は細い呼吸を数回繰り返し、強制的に心を落ち着かせた。
「びっくりした。びっくりしすぎて心臓が口から飛び出すかと思ったわ」
「ははっ。何だよそれ。それはこっちのセリフだっつーの。……この前、たまたまみたいな人見かけてさ、懐かしくなっちゃってここに来てみたら、本物のがいるんだもんな。マジ、ビビったわ」
瞬時にあの時の光景がフラッシュバックする。駅のスーパーで見かけた黒髪のシルエット。
やはり、あの時見かけたのは高尾だったのか。
あれは高尾によく似た全くの別人だとずっと言い聞かせてきたのに、呆気なくその思い込みは崩れ去った。
それだけなら良かったのに、高尾の言いぶりからして、こちらも見られていたということだ。
胸がぎゅうっと締めつけられる。
―― 帰りたい。一刻も早くここから立ち去りたい。
これ以上の会話なんて無理だ。たった一言、「行くね」と言って立ち上がればいいだけなのに、それすらもできない。
どこかで会いたいと願ってしまっていたのだろうか。だからこんな状況を生んでしまったのだろうか。
まるでここに根を下ろしたみたいには動けなかった。
じわじわと身も心も絡めとられてゆくのを感じる中、のハンドバッグの中で携帯が存在を主張し出した。
はっとして手を伸ばす。
赤司からのメールだ。
『今日は早く帰れそうだ。たまには外で食事でもどうかな?』
その無機質な文字列とは裏腹に、は温度を取り戻していく。
赤司が待ってくれている。
「ごめん。約束があるから、もう行くね」
は高尾の方を見ないようにして立ち上がり、足早に立ち去ろうとした。
これからは気をつけなければならない。迂闊に外を出歩くのも控えよう。
東京は狭すぎる。過去を封じこめようにも、こんな風にいとも容易く思い出したくない過去に遭遇してしまう。
「俺、××って会社に就職したんだ」
数メートル離れたところで背中から聞こえてきた声にの足は止まった。
その会社名は、家の抱える会社だ。
高校の時、家柄について高尾に話したことはなかったはず。それなのにこのタイミングでその会社名が出てきたのは、きっと偶然なんかじゃない。
誰かに聞いたのか。どこかで調べたのか。
それはつまり、「俺はまだお前のことを忘れたわけじゃない」ということを伝えたいのだろうか。
の影を追って就職試験を受けたのだと。そうすればに会える機会が訪れるだろうと踏んで。
だが、はそこにはいない。
と赤司が就職したのは別々の会社だったが、が就職したのも赤司家お抱えの会社だった。
そしてそのことを高尾に伝える義理はない。
「そう……。お互い、社会人を頑張りましょ」
そう告げて、今度こそ振り向きもせず公園をあとにした。
高尾の視線が最後までの右手で輝く指輪に注がれていたことには気づかない振りをした。
※
高尾と遭遇してから数日。時刻は夜の九時。は自宅最寄り駅のホームに降り立っていた。
今日は珍しく、赤司の方が先に帰宅している。この時間帯ならおそらく、赤司はまだ晩ご飯を取らずの帰りを待っているはずだ。
は今朝見た冷蔵庫の中身を思い出す。
―― 軽く何か買っていこうかしら。
改札を抜けるとロータリーに向かって直進はせず、通路を右折した。
その時、突然後ろから肩を叩かれた。あまりにびっくりして思わずそこで飛び跳ねてしまいそうになった。
「よっ」
振り返るとそこには軽いノリで片手を上げる高尾がいた。
しかし、驚いたのは一瞬だけ。それが高尾だと確認するや否や、は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ひでー顔だな」
なぜここにいるの? 自分に問いかけ、それは愚問だと自分で答えを導き出す。
そんなの決まっている。高尾はあたかも偶然を装ってるようだが、張っていたんだ。
はスタスタと歩を進め、スーパーの自動ドアを抜けて買い物かごを手に取った。その後ろを高尾がご主人様を追いかける犬のようについてくる。
「今更、私に何のご用?」
「つれねぇなーチャン。振ったのはどっちよ?」
ははたと足を止めた。
正直なところ、高尾の真意はわからない。自惚れていいのなら……という考えが頭の片隅をよぎるが、それは決して許されないこと。は思考を強制的にシャットダウンする。
高尾の方へ振り向きながら、
「さぁ、何のことかしら? 忘れてしまったわ」
と口元に笑みを浮かべて告げた。
―― いつまでついてくるつもりなの?
高尾は一定距離を保ちながらの後ろをついて回っていた。これではまるで金魚のフンだ。落ち着いて買い物もできやしない。
平静を装っているが、実際は先ほどから動悸が激しくなっている。かごの取っ手を握る手にもじわじわと汗が滲み出している。
はなるべく高尾の存在を視界に入れないように店内を回った。
大方見て回った後、仕上げにロイヤルミルクティーの紙パックを二つ、かごに入れた。
「同棲してんの?」
ぎょっとして顔を上げると、いつの間にか高尾が傍まで来ていてかごの中を覗き込んでいた。
の買い物は食材や調味料がほとんどで既製品はあまりないのだが、ここの紙パックのロイヤルミルクティーは好きでよく買っていた。そして買う時は必ず自分の分と赤司の分の二つを買っている。
「結婚……はしてねーよな。指輪左手じゃねーし。……相手は誰? どんなやつ?」
は無言で高尾を一瞥し、複雑な気持ちで会計の列に並んだ。
買い物袋を手に下げたところでは辺りをきょろきょろ見渡してみた。高尾の姿はない。あのまま帰ってくれただろうか。
ほんの少し、警戒心を解いてスーパーの自動ドアを抜けると、そこには先回りしていた高尾がいた。
―― まだ帰ってなかったのね。油断できない。
はわざとらしい深いため息を一つ吐いた。
「一つ目の答えと二つ目の答えはどちらもイエス」
「……は?」
「さっきの質問の答えよ。結婚はしていないけど同棲はしているわ。残りの二つについてはノーコメント。相手が誰でどんな人かは和成が知る必要はないわよね」
今度はきちんと向き合いながら話をした。
「それから、和成は私に何を求めてるの? こんなところで待ち伏せまでして」
「……バレてたのか」
「当たり前でしょ。大方、前にこのお店で私を見かけたからここが私の最寄り駅だと踏んでいたんでしょ」
「なんだ。そこまでわかって……っておかしくね? 俺、を見かけたのはここだって言った覚えねーんだけど」
……しまった。と思った時にはもう遅い。
確かに高尾はを見かけたとは言ったけど、どこで見かけたかは言ってなかった。
は自分の迂闊さに頭を抱えたくなった。
「それって、もここで俺を見たってことだよな?」
何も答えることができなかった。無言は肯定を示しているようなもので、更にその無言の中にはあらゆる感情が押し殺されている。それだけは気づいて欲しくない。
だんだん高尾の目を見るのが怖くなり、の視線は徐々に下がっていく。
「……俺を選んで欲しい」
「えっ?」
一度伏せた視線をもう一度高尾に向ける。
「俺の望み。俺がに望んでいること。と別れてから四年。どこにいても誰といても、ふとした時にのことを思い出してしまう。こういうのって男の方が未練がましいっていうだろ? ……今の男なんて捨てて俺のとこ来いよ」
最後の方は儚く消えてしまいそうな声だった。
もう平静を装っていられなくなっていた。自分の顔がどんどん歪んでいくのがわかる。
自分の身勝手な感情で別れを告げたというのに、どうしてこんなところまで高尾は追いかけてくるのだろう。どう対処したら良いのか全くわからない。出口の見えない迷路に迷い込んだようで時間の経過とともにの心を蝕んでいく。
せっかく四年という月日をかけて切り捨ててきたというのに、まだしぶとくぶら下がってるとでもいうのか。
必死に高尾に掛ける言葉を探している最中、のカバンのポケットの中で携帯が震え出した。
―― 征十郎さん。
赤司からの連絡はどこかで監視してるのでは? と思ってしまうほど絶妙なタイミングでくる。
だが、今回はメールではなく電話だ。
は高尾の目を見据えながら携帯の通話の文字をタップした。
「もしもし……」
『、どこにいるんだい? もう家に着いてもいい頃だよね?』
「ごめんなさい。軽く足しになるものをと思って買い物をしてたら、すっかり悩んでしまって」
『まだ駅?』
「えぇ」
『迎えに行く。そこから動かないでいて』
「えっ……」
の目に動揺が走った。
今は高尾がいる。こんな状況は見られたくない。そして何より自身が一刻も早くここを立ち去りたいという気持ちもある。
は視界の端にタクシー乗り場をとらえながら会話を続けた。
「ありがとう。でも迎えはいらないわ。家で待っていて欲しいの。私はタクシーで帰るから心配しないで」
『……わかった。ただし、十五分経っても帰ってこなかったら探しに出るからね』
「えぇ、わかったわ」
通話を切り、は細く息を吐いた。
「……というわけだから、さよならよ。私はタクシーで帰るから」
ここから家までは歩いて十分もかからない。
赤司の迎えを拒んだのはこの状況を見られたくないのもあったが、高尾に家を知られたくないというのが本音だった。
「私には私の生活があるの。あなたの望みを叶えられそうにないわ。だからお願い。もうここで待ち伏せしたりしないで」
お願いだから……。と背を向けながらもう一度呟く。だけど返ってきた答えはの願いに遠く及ばないものだった。
「わり。俺もの望み叶えてやれそうにないわ。だってそれはの都合だろ? 俺はの都合を踏みにじってでもを傷つけてでもが欲しいと思ってるから」
「っ……」
―― どうしてっ!? どうしてそこまでして私を……。
心臓を鷲掴みされたような錯覚に囚われて振り返る。が、高尾もすでに背を向けて歩き出していた。
その背中に掛ける言葉は何も見つからない。何と言ったらこの状況を打開できるのだろう。
は高尾の背中を睨みつけて涙を堪えた。泣くわけにはいかない。泣いたら目が赤くなってしまう。そんな顔で赤司のもとへは帰れない。
「ほんと、やめて……」
その呟きは誰に届くこともない。
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2016.02.24