三月。大学の卒業式を数日前に控えたと赤司は東京の地にいた。
無事に学士取得できることが決まった二人は、これから共に生活する部屋の下見と両家への挨拶を兼ねて二泊で一時帰省中だった。今日はその中日である。昨日の夜はが赤司家へ。今日の夜は赤司が家へそれぞれ挨拶へ向かうことになっている。
「うーん、悩むわね」
二人は家具屋に来ていた。先ほどからうんうんと唸っているのはだ。
これから暮らす部屋は決まっているものの、家具類が全て揃っているわけではなかった。それならば自分たちで選ぼうというわけで、この帰省を利用することにした
とりわけ難航しているのがベッドである。
ソファやダイニングテーブルなど、リビングダイニングのものは揃っているのに、どういうわけか一番なくては困る寝る場所がまだ確保されていなかった。
は候補の一つのベッドに腰を下ろした。スプリングが軋む音とともに身体が上下する。
「デザインはこっちの方が好みなんだけど、寝心地はあっちの方が良さそうなのよね」
ちなみにこっちとはセミダブルのベッドで、あっちとはダブルベッドのことである。
悩むわ……。とは思案顔になる。
寝具は大切だ。良質な睡眠を取れるかどうかで精神に及ぼす影響も大きいだろう。何よりこれから社会に出て働くのだ。ただでさえストレス社会だというのに、リラックスするはずの睡眠でストレスは溜めては本末転倒というものだ。
「俺はこっちのセミダブルでも構わないよ」
がごにょごにょ悩んでるところに赤司が横やりを入れる。それを受けては赤司を見上げた。
「えっ、でも狭いわよ?」
「問題でもあるのかい?」
「くっついて寝ないといけなくなるじゃない。冬はいいけど、夏は嫌ね」
もちろん、赤司はそういう魂胆で意見を述べたのだが、は意に介さずばっさりと切り捨てた。
「決めた。あっちのダブルにしましょう。やっぱり寝心地が一番大事よね。デザインはシーツや掛布団でいくらでもカバーできるもの」
はすっと立ち上がって「さ、次に行きましょ」と言わんばかりに店内を移動した。
結局、赤司の言葉が決定打となり、ベッドはダブルに決まった。
一通り、必要最低限のものの購入を決め、二人は店を後にした。外へ出ると初春の暖かな陽気と時折吹き付ける冬の名残風に身を包まれる。
「さすがに一日で全部を決めるのは厳しいわね」
「残りは使用人たちに任せよう」
「できるだけ自分たちで決めたかったのだけど……仕方ないわね」
やってくれる人に頼ってばかりでは、何もできない大人になってしまう。というのがの考え方だった。
そういうところから、は京都では使用人を連れて来ず、マンションで一人暮らし(ただしセキュリティは万全)をしていた。とは言っても、赤司と共にいる時間の方が長かったため、ほとんど一人暮らしをしているという実感はなかったのだけれど。
「疲れただろう? 少し休んでから向かおうか」
道行く人々がチェーンカフェへ吸い込まれていく光景を眺めながら、赤司はを気遣う言葉を掛けた。
「そうね……」
―― 確かに少し疲れたかも。
家具を見て回っている時は集中して気がつかなかったが、今になってじわじわと疲労を感じる。一息つけるのならそれはありがたい。ただ、
「あのお店はちょっと無理そうね。座席にたどり着くまでに余計疲れてしまいそう」
先ほどからお店に吸い込まれていく人々の大半は、店内の様子を見てすぐに外へ出てきている。つまり店内は混雑しているのだ。
このまま我が家に帰って夜までのんびりするというのも悪くないのだが……、
―― あ、そういえば……。
はあることを思い出して赤司に視線を向けた。
「少し歩くのだけど、行ってみたいところがあるわ」
その場所は先ほどの場所から歩いて十五分ほどのところにあった。大きな通りから一本路地に入って三件目、喧騒を忘れた世界にそれはひっそりと佇んでいた。
「あっ、あったあった! よかった。まだやってたのね」
「まだ?」
の不可解な言葉に赤司は首を傾げた。
「まぁ、入ってみればわかるわ」
は赤司の疑問を気にも留めず、嬉しそうにひらがなで『きっさてん あろー』と書かれたお店へと駆け寄っていった。木製のドアを押すと、キィと軋む音とともに、カランカランと鐘の音も響く。赤司はすでに何か違和感を覚えていた。
「征十郎さん、何してるの? 早く入りましょ」
「……あぁ」
店内に入ってみると、確かにの言う通りすぐにわかった。
一言で言えば、ボロい。ただし、ただボロいわけではなく、アンティークと言えばいいのかレトロと言えばいいのか、古めかしい西洋人形、魔女の宅○便に出てきたような箒のオブジェ、果ては座敷童のような日本人形にブリキの車のおもちゃなどなど……。今ではなかなか入手できなさそうなものが所々に鎮座している。さらに店内の椅子やテーブルもどれ一つ揃っておらず、よく言えば味がある、悪く言えばボロボロのものが並べられていた。
「……とにかく古いものを寄せ集めた。という感じのお店だね」
「そうなの。この今にも潰れそうな不思議な空間がくせになっちゃって……あ、でもちゃんと味はいいのよ?」
はロイヤルミルクティーを、赤司はブレンドコーヒーをそれぞれ頼んだ。紅茶のフレーバーな香りやコーヒーの香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。
「驚いた。確かに店の雰囲気に反して味は悪くない」
一口、口に含んだ赤司がボソっと感想を述べた。
「……征十郎さん、お店の人に聞こえちゃうわよ」
カップの半分ほどを飲み干したところでは店内をぐるりと見渡した。
本当に何も変わらない。不思議なコレクションは多少、増減しているようだが、いつ壊れてもおかしくないテーブルや椅子たちは変わっていない。それだけお店の人が丁寧に手入れをしてきた証拠なのだろう。
はひたすら懐かしさにふけっていた。それ故にタブーを冒していることに全く気づいていなかった。
「……高校の頃、よく放課後に来ていたのよ」
が独り言のように呟いたその瞬間、ビシッと空気が張り詰めたのがわかった。
―― あっ……。
しまった。と思った時にはもう遅かった。
と赤司の間にある暗黙の了解。それはお互いの過去を詮索しないこと。とりわけ高校の話が最もタブーで、たとえしたとしても幼少期の頃の話くらいだった。
赤司の目がすっと細くなった。これは不快に感じた時の仕草だ。
迂闊だった。どうしてこんなところに来てしまったのだろう。
先ほどの高揚した気分は一転、どっと暗いものが押し寄せてくる。
心の奥底にそっと閉じ込めていたものが次から次へと蘇ってくる。それらはまだ想い出にはなってくれていない記憶の欠片たち。何度も捨てようとしたのに、捨てるたびにまた拾ってきてしまう……。
「帰ろうか」
はっとして顔を上げると、赤司は伝票を手に取り立ち上がった。二人のカップにはまだ中身が残っている。だけど赤司は帰ろうと促す。
赤司は手早く会計を済ませ、未だ席から動けずにいたの手を取って立ち上がらせた。
「行くよ」
「……えぇ」
ドアの軋む音と鐘の音を再び鳴らし、二人はだいぶ陽の落ちた外へと出た。
の手は赤司にしっかりと握られている。その力強さは、何かを必死に繋ぎとめておくかのようだった。
※
新年度を迎えて三週間が経過した。まだスプリングコートを手放せずにいるが、汗ばむ程度に暖かい陽気に包まれる日も多くなってきていた。
そんな時分、と赤司の二人暮らしが始まっていた。
京都に居た頃も試験前や論文執筆に忙しかった時期を除いては赤司家で過ごすことが多かったため、半分は一緒に生活してるようなものだったのだが、こうして実際に二人で暮らすというのはやはり感じることが違った。
家に帰れば「ただいま」と言える相手がいる。「おかえり」と帰りを迎えてくれる相手がいる。
たったそれだけの些細な出来事が、ありふれた日常に温かい色を灯していた。
社会の荒波にもまれて心が疲弊した時も、寄り添える相手がいるというだけで随分と心は救われる。
二人の住まいは十一階建てマンションの最上階にあった。広々としたリビングに洋室が三つ。二人で生活するにしても広すぎるほどの部屋が二人の住処だった。
普段は基本的に二人だけで生活をしているが、週に何回かは赤司家の使用人が日中、手伝いに上がっていた。と赤司……とりわけ赤司は日々忙しく働きまわり、到底二人だけでは家事を回すことができないための処置だった。
それでもできる限り家事は自分の手で行いたいとは考えており、仕事帰りに余裕がある時は駅に併設されているスーパーで夕飯の買い物をすることが多かった。
その日も定時後キリのいいところで上がったは、軽くつまめるものを作ろうと買い物をしていた。
―― 征十郎さんが喜んでくれそうなもの……お豆腐と……。
は豆腐のコーナーでワンパック八十四円……ではなく、少しばかり高級そうな豆腐に手を伸ばす。
赤司の一番好きな湯豆腐を作るには、季節が過ぎてしまってる。としては豆腐と海藻を合わせて梅ドレッシングで頂くのが好きなのだが、当の赤司が海藻を好まない。
以前、「海藻はミネラルたっぷりで身体にいいのに」とぼやいたら、「海藻だけで栄養を摂っているわけじゃない」とぴしゃりと切り捨てられたものだ。
―― 甘酢あんかけにでもしましょうかね。そうすると……片栗粉も必要ね。
豆腐をかごに入れ、粉もののエリアへ足を伸ばす。その他にもいくつか食材やらをかごへ放り込み、会計レジに並んだ。この時間帯のレジは意外と混んでいることが多い。皆、と同じように仕事帰りに買い物をしているのだろう。
会計を済ませ、手早く袋に詰めたところで、はカバンから携帯を取り出した。携帯は緑色のランプを点滅させていた。
画面ロックを外し確認すると、予想通り、赤司からの連絡だった。
『すまない。今日は帰りが遅くなりそうだ』
送信時刻は二十時五十二分。十五分ほど前に受信したらしい。
『お疲れさま。ご飯準備して待ってます』
とテキストボックスに打ち込み、送信。
―ー さて、帰りましょうか。
買い物袋を手に下げ、出入り口へと視線を移した。その時だった。
―― えっ……。
は目を見張り、とっさに背中を向けた。
出入り口に目をやったその瞬間、誰かが店内に入ってきた。それは……。気づいてはならないものに気づいてしまった気がする。
目にしたのはほんの一瞬。見間違いかもしれない。
振り返って確かめたい衝動に駆られたが、怖くて振り返ることができなかった。それに、
―― 確かめてどうするつもりなの?
確かめたところでメリットになるものが一つも見当たらない。それどころか、デメリットしか見出せない。それなら、何も見ない、何も知らない方が幸せだ。
はそのまま、表の出入り口ではなく裏の出入り口から帰ることにした。
帰り道、先ほどの光景が蘇る。
最後に見たのは四年と少し前。中途半端な気持ちをぶら下げたまま、一方的に別れを告げた。
きれいな黒髪が印象的だった。あのシルエット、遠目からでも気づける自信が……今でもある。
そこまで考えては頭を横に振った。
―― 私は何を考えているの?
早く……早く、赤司に会いたい。この動揺を早く鎮めたい。
赤司に会えば落ち着くことができる気がする。
だけど、
自宅マンションにたどり着き、暗証番号を打ち込んでエントランスに入る。エレベーターで十一階。
自宅のドアを開けて待っていたのは、無機質な部屋だった。かろうじて人感センサーが働いて照明が点いてくれたが、無機質な空間を余計に際立たせるだけだった。
無意識のうちに携帯を取り出し確認するが、赤司からは何の連絡も入っていなかった。
不安定な吐息が零れる。
キッチンには日中、使用人が用意してくれた夕食が並べられていた。
は購入してきた豆腐などを冷蔵庫に片付け、片栗粉もパントリーの中に押し込んだ。
今は何も作れそうにない。
は夕食の品々をダイニングへ運び、メモを走らせた。
『今日は先に休んでいます。ご飯を準備してなくてごめんなさい』
ここで言うご飯は、が作るご飯のことだ。
そのメモを目につきやすい場所に置き、寝室へ直行した。服を脱ぎ散らかし、楽な恰好に着替えるとベッドに潜り込んだ。
必死に意識を落とそうとするが、それはなかなか叶わない。
はすがる思いで赤司の枕を抱きしめた。ふわっと赤司の香りに包まれる。それは全身を駆け巡り、脳内を麻痺させていく。
ようやく落ち着けたような気がした は、静かに瞼を下ろした。
どれほどそうしていただろうか。
うすぼんやりとした意識の中で、施錠が外れ、玄関ドアの開く音がした。
―― 今、何時なんだろう。
枕元の時計に目をやると、時刻は十一時過ぎを差していた。
今日は特別、帰りが遅かったようだ。週末だからだろうか。
帰宅した赤司はいつもと違う様子に自然と足取りは忍び足になり、リビングのドアを開けた。
普段なら夕食やお風呂を先に済ませていても、が赤司の帰りを待っていたはずだ。
赤司はダイニングに置かれているメモに気づき、手を伸ばした。
その様子がにも伝わってきた。
しばらくすると寝室のドアが開き、赤司が入ってきた。
「?」
それはを案じる声音だった。
赤司は屈み込み、温度を失ったの頬に手を伸ばした。数回、指の腹を滑らせる。
「体調でも優れないのかい?」
「えぇ。ごめんなさい。少し休めばすぐによくなると思うの」
は頬を撫でる赤司の手に自分の手を重ねた。
やっと赤司が帰ってきてくれた。ずっと求めていた温もり。これに触れれば落ち着きを取り戻すはず……だったのに、心のざわめきは未だに納まることを知らない。
―― どうしたらいいの?
こういう状況になった時の対処方法を、は知らない。
赤司が額に唇を寄せてきた。は赤司の吐息を感じて、睫毛を震わせた。
本当はその口づけは唇に落としたいのだろう。赤司はを気遣ってくれているようだった。それか、今は唇には落としてはいけないとどこかで感じてしまったのか……。
「ゆっくりお休み。オレはご飯を頂いてくるよ」
赤司はもう一度、の頬をひと撫でし、離れていった。
二人の生活はまだ始まったばかりだ。
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箒のオブジェって何だろう? 自分で書いていて謎だと思いました。
ちなみに『きっさてん あろー』のあろーは、アンティークの「あ」とレトロの「ろ」を取って命名しました。……わりといい加減です。
2016.02.24