京都の冬は舐めてかかると痛い目を見る。そう痛感したのはここ京都で生活を始めて一年目の冬を迎えた時のことだった。
月日は流れて、その冬も今年で四度目。そして最後の冬にもなる。
はマイクを片手に大学構内に建つホールの壇上にいた。背中には大きなスクリーン。ほんのり照明が落とされ暖房の効いた場内は、睡眠欲を掻き立てるのに最適な条件を満たしている。
そこが本日、卒業論文の発表会が行われている会場だった。
「―― 以上。ご清聴ありがとうございました」
発表を終えたは次の人にマイクを渡し、深く安堵の息を吐いた。壇上に立っているのはほんの十数分だけだったというのに、永遠にも思えるほど永く感じた、それだけ緊張をしたのだろう。
しかしその発表も終わった。あとは聴くに徹するだけ。そう思った瞬間、一気に気が抜けてしまった。
の発表は比較的後ろの方で、それ故にの発表時は、しっかり目を開けて聴いている学生よりもウトウトしてる学生の方が多かった。
も例外なく、席に着くなり、みるみる背中が丸まりだらしなく椅子の背にもたれ掛かる。あぁ、そういえば椅子には背もたれがあったんだっけ。なんてことを今更思い出しながら、発表会が終わるのを今か今かと待った。
「」
無事に発表会の全工程を終え、会場を出ると後ろから名前を呼ばれた。
決して大きいわけではないのに凛とよく通る声。その声には微笑みながら振り返った。
「征十郎さん。聴きにきてくれてたんだ」
出入り口付近の壁際。そこには別の大学に通う恋人がいた。
赤司征十郎。聞く人が聞けばわかる。赤司家は日本有数の名家だ。赤司はそこの子息であり、もまた、由緒ある資産家の生まれだった。つまりはそういう関係で二人は出逢った。
赤司の姿を見て初めて、ようやく長い闘いが終わったのだと実感することができたような気がした。
大学の卒業は、もう目の前だ。
「最後、気を抜いていただろう?」
こつんと額を小突かれて赤司に指摘された。
「いてっ。……え、気なんて抜いて」
は小突かれたところを大げさにさすりながら抗議の声を上げる。
「違う。発表の後だ。座席に戻ってから」
―― うわ。見られてたんだ。
赤司が気づいて欲しくないとこまで気づいてしまうのは今に始まったことではないけど、何て目ざといのだろう。
は苦い顔をした。
「気づいてなかったのかい? 振り返ればすぐに見えるところにいたんだが」
の座席の後ろは通路になっていた。赤司は通路から一列目のの斜め後ろに座っていたという。
そんな近くにいたのに全く気がつかなかった。というよりも、発表を無事に終えられるかどうかが気がかりで気がつく余裕がなかったというのが正しいのかもしれない。
「明日は完全にオフだったよね? 今晩はうちにおいで」
はこくんと頷き、二人は並んで歩き始めた。
冬至から二ヶ月近く経ち、陽は少しずつ伸びてはいるが、まだ夕方の四時だというのに陽はだいぶ傾いていた。
「征十郎さんは?」
「午後から少し学校へ行く予定だが、掲示板を見に行くだけだからも一緒に行こう」
「そっか。征十郎さんの合否が出るの明日なんだっけ」
今日がの卒論発表日であるように、赤司は一昨日が発表日だった。ぜひとも聴きに行きたかったのだが、如何せん、二日後に発表を控えているにはそんな余裕が全くなかった。
そして明日がその合否判定――つまり卒業できるかどうかがわかる日だ。赤司の日程を追いかけるようにの合否が出るのもその二日後となっている。
「征十郎さんが卒業できないなんてあり得ないだろうけど、でもちゃんと名前が貼り出されてるのは見たいわね」
「貼り出されるのは学籍番号だけだけどね」
「……」
冷静な突っ込みにはむっとしてそっぽを向き、口を尖がらせた。歩くポジションも赤司より半歩前に出る。
「すまない。つい意地悪したくなってしまってね。謝るからこっちを向いてくれ」
目の端に赤司の苦笑が映り込む。別に怒ってなどいないし、意地悪されたとも思っていない。
けど、
「それなら私に少しつき合ってよ。そしたら許すわ」
これを口実に使わない手はない。は振り返りながらお願いを投げた。赤司は一瞬きょとんとしたが、すぐにいつもの表情に戻り、「お安いご用」と微笑んでの手を取り歩き出す。
あまりにスマートな動作にの胸は高鳴りを覚えた。
―― 先手を取ったのは私だと思っていたのに……。
赤司に対して、してやった……! と思えたためしがまるでない。
赤司のことだから、の行きたい先も大方わかっているのだろう。相変わらず全てを見透かされているようで悔しい。だけど相手が赤司だからだろうか。敵わなくて構わないと思ってしまう。
「お望みの場所はここでよかったかな?」
「えぇ……そうね」
寸分の狂いもなく、先ほど脳内で思い描いていた景色が、今、の目の前に広がっていた。
ここは鴨川の始まり。賀茂川と高野川の交わる場所。通称鴨川デルタと呼ばれる場所だ。まさにここに来たかった、
ピンポイントでここまで来た赤司は一体、どれだけの思考回路を知り尽くしているのだろう。
は鴨川の岸と岸を結ぶ飛び石の上をひょこひょこ飛びながら、後ろからついてくる赤司征十郎という男のことを改めて考えてみた。
つき合い始めてからもう四年。
赤司が優しくなかったことはなかった。喧嘩らしい喧嘩をした記憶もない。非の打ちどころが見当たらなくて、これほどの人がなぜ私を……。と思うことも少なくない。
それでも一度取ってしまった手は際限なく甘い誘惑を繰り返し、心も身体もがんじがらめていく。
何かに似ている。とても何かに……そう、抜けることのできない中毒に似ている。
飛び石を渡り切ったところで振り返ると、赤司がちょうど最後の石に足をかけたところだった。
「そういえば、こんな風に一緒に歩くの久しぶりな気がするね」
「そうだね。今日まで二人とも忙しなかったからね」
そうだ。この日に向けて今日までパソコンや資料とにらめっこする日々だった。電話やメールをすることはあっても、ゆっくり会うなんていうのは年明け以降お預け状態だった。
「まだ時間はあるが、どうしようか。早めに帰ってもいいが」
が手を伸ばすと、赤司はそれを取り岸に上がる。
帰る。それも悪くもないけど、せっかくこうしていられるのに帰ってしまうのは何だかもったいない。
は思考を巡らせた。
「それなら少し散歩でもしましょ。このまま歩いて四条の辺りまで」
「それは……少しではないよね? かなり距離があるよ。それに寒くないのかい?」
その時、ちょうど身を切るような冷たい風が吹きつけた。
「寒いわ。寒いけどそれ以上に……」
―― あなたと一緒に歩きたいから。
そう微笑むと、赤司は仕方がないとでも言いたげにの何百倍もの優しい笑みを浮かべての腰に手を回した。
「俺が聞くわがままはのわがままだけだよ。……こうしていれば多少は温かいだろう」
「ありがとう」
その後、鴨川沿いを四条大橋までひたすら歩き続け、祇園四条駅から電車に乗った。
電車に乗るなりはくしゃみを連発し、それを見た赤司は「帰ったら先にお風呂だね」と苦笑しながら言った。
今はそのお風呂と夕食も済ませ、赤司の自室で二人で並んでソファにゆったり身を沈めていた。
「くしゃみはもう出ないみたいだね」
「えぇ。おかげさまで」
こつんとは赤司の肩に頭を預けた。それを合図に赤司もを抱き寄せる。ぴったりくっつきながら赤司の温もりに身を寄せた。
少し調子に乗りすぎたかもしれない。今は温かいお風呂とご飯のおかげでだいぶ温まったが、隣に赤司がいたとはいえ川辺の寒さは尋常ではなかった。
でも、どうしても行きたかった。暖かくなる季節まで待ってはいられない。その頃にはもう京都にいないのだから。
一ヶ月後には卒業式が待っている。卒業式が終われば、二人は故郷である東京に帰ることになっていた。
あと、何回行けるだろうか。
鴨川はの好きな場所の一つであった。
―― 東京か。
できれば……いや、かなり帰りたくない。
東京には楽しい想い出もたくさんあるが、できれば思い出したくないこともたくさんある。
はぎゅっと更に赤司にしがみついた。しがみつけばしがみつくほど、優しい力で受けとめてくれる赤司。だけど、今日はどこかぎこちないような……そんな違和感をは覚えた。
気のせいだろうか。それとも、
「征十郎さん」
は身体を離し、赤司の顔を覗き込む。
「どこか具合でも悪い?」
「いや、どこも悪くないが……」
赤司は怪訝な顔をした。
「なぜそう思う?」
―― そんな、なぜと訊かれても……、
感じたのはわずかな違和感だけで、なんと表現したらいいのかわからない。
「何でもないのならいいの。ごめんなさい。……いつもと何かが違う気がしたんだけど、うまく言えないわ」
すると赤司は驚いた表情を見せた。今の言葉に驚く要素などあっただろうか。
「よく気がついたな」
「えっ、じゃあ本当に具合が……私が今日、寒空の下連れまわしたから」
「具合は悪くないよ」
の言葉に被せるように答えると、赤司は立ち上がってキャビネットの前まで移動した。そして引き出しの中から小さな箱を出し、戻ってくる。
その一連の動作をは目で追っていた。
「具合は悪くないが、緊張はしていた」
―― 緊張?
何とも赤司に似つかわしくない単語が赤司の口から飛び出し、は首を傾げる。
「卒業して東京に戻ったら……、一緒に暮らさないか?」
―― えっ……。
それは唐突な切り出しだった。
は目を見張り、赤司を見つめる。
「俺たちは半分は決められた運命のようなものだが、それでも未来の俺の隣に以外の誰かがいるのは想像できないし、の隣に俺以外の男がいるのも嫌なんだ」
そう。二人は出逢うべくして出逢った。名家の子息と資産家の子女。婚約者として引き合わされたわけではないが、将来、そうなってくれることを望んでいると、両家の当主から言われている。
そういう未来を見据えて恋仲になった。それは二人の意志だ。
「もちろん、その時が来たらその時でまたきちんと伝えるつもりだが、ひとまずは」
赤司は先ほど持ってきた小さな箱の中から指輪を取り出し、の右手を取った。
「近い将来、必ず同じものを左手の指にも贈るから」
右手の薬指にすっとそれを通した。
「今はその予約の予約ってところかな」
は右手で輝く指輪をまじまじと見つめた。
指輪はどこか神聖だ。どんなアクセサリーよりもそれが意味するものは特別に思う。だからこそ赤司の言葉を真摯に受け止めて心からの言葉を返したい。はそっと瞳を閉じて今にそぐう言葉を探した。
「……そろそろ何か話してくれないかい? さすがの俺も不安になるよ」
はっとして瞳を開くと、愁いを帯びた赤司の顔があった。
「ごめんなさい。びっくりしちゃって……」
一度言葉を切ってから再び口を開く。
「念のために訊くけど、拒否権は?」
「ないな。部屋はもう用意してある」
は思わずクスッと笑みをこぼした。その瞬間に身を纏う空気が軽くなったような気がした。
―― あぁ、私も緊張していたのね。
「何よそれ。それで私が頷かなかったらどうするつもりだったの?」
「まさか、頷かないのかい?」
「まさか」
は右手を抱え込むように左手で包み、穏やかは笑みを浮かべた。
「答えなんて最初から決まっているわ。そうでなければ今私はあなたと一緒にいないもの。答えはもちろんイエスよ」
しっかりと目を見つめて精一杯の気持ちを告げた。
どうだろう。どこまで伝わっただろうか。ただ答えを返しただけなのにこんなに怖いだなんて。赤司はどれほどの勇気を振り絞ったのだろう。
すっと赤司の手が伸びてきて頬に添えられる。何度か頬の上を滑らせた後、自然な流れでその手は後頭部へと回され、ぐっと赤司の顔が近づいてきた。急な至近距離に驚いたものの、すぐさま瞳を閉じて受け入れる態勢に入る。それを確認した赤司は形の良い唇をのそれに重ねた。
「逃げても逃がさないよ」
唇が離れた隙に色の含んだ声で囁かれる。それだけでも脳天を貫きそうなのに、再び重ねられた唇は深く激しく、全てを食らいつくしてしまいそうなほど熱かった。
「ん……」
自然と声が漏れてしまう。更に体重をかけられたの身体はドサッとソファの上に倒れこみ、頭上から降る赤司からの愛を必死に受け止めた。
「……ソファは嫌。あと電気」
このまま情事に突入しそうなところで息絶え絶えにそれだけを伝える。
「仰せのままに」
の訴えに赤司は笑みをこぼし、を抱きかかえるとベッドへ移動した。きちんと整えられたベッドにを下ろし、照明も小さくする。
はうつろな瞳で明かりか小さくなる寸前に時計の針を見た。
―― 今夜は長期戦になりそう。
でも、たまにはそれも悪くないか。
そんなことを考えながら、上に覆いかぶさってくる赤司に身を委ねた。
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赤司くん長編の大幅修正です。
2016.02.24