07:奪い取られた心の行く末

 



 それに気がついたのは、二ヶ月ほど前のことだった。最初はさり気ない気遣いが素敵だと思った。


 ある時、会議で席を外し、戻ってくると、デスクの上に飴が転がっていた。いちごミルク味のもので、どちらかといえば女性が好みそうな飴。誰かのポケットから転がり落ちたのだろうか、などと考えながらそばに置かれていた報告資料を手に取ると、そこにはクリップでメモが添えられていた。
『いつも遅くまで残業お疲れさまです』
 定時前から始まった会議は数時間に及び、時計の針は八時半を差している。平社員のほとんどはすでに退社しており、フロア内にはぽつんぽつんとしか人影が残っていなかった。
 桜柄のメモ用紙は、事務的ではない温かさがあり、ほんの少し、ゴリゴリに固まった心身がほぐれたような気がした。

 包みを開けて飴玉を口の中に放り込んだ。甘ったるい味が口内で一気に広がる。
── さんか。
 メモに名前は記されていなかったが、この資料を作成したのが誰なのかはわかる。
 の顔を思い浮かべ、わずかに彼女への印象を良くした赤司は、ノートパソコンを開き、残っている仕事に取りかかった。


 それからというものの、の小さな気遣いが目につくようになった。例えば。急きょ、部署内ミーティングが必要になり、ミーティングルームに行くと、すでにほど良く空調が効いていたり。例えば。ここぞというタイミングで「コーヒーをお持ちしましょうか?」と声をかけてきてくれたり。もちろん、日々の仕事をねぎらうように、資料にお菓子が添えられていることもしばしば。

 はこの春、人事に希望を出してここの部署に異動してきた者だった。近頃は定時後に会議から戻ってくるのが楽しみになりつつあった。
 してやられた、とは思っている。そして案外、自分もちょろいもんだと己をあざ笑いながらも、こんな気持ちを持てたことが楽しくて仕方ないのも事実だった。

 だが、その日は会議から戻ってきてもデスクの上には何も置かれていなかった。代わりに彼女が一人、フロアに残ってパソコンに向かっていた。
 彼女の様子を窺いつつ、ノートパソコンを開いてメールのチェックを始める。この数時間で大したメールは届いておらず、急いで返信を打たなければならないものはなかった。それから、先ほどの会議の資料に目を通す。次第に集中力が高まり、周囲のことが気にならなくなっていったが、デスクの上に何かが置かれた音に、はっと我に返った。
 そこに置かれたのは湯気の上がるカップコーヒー。視線を上げれば、が立っていた。

「お疲れさまです」

 珍しいものだ。いつもならさり気なく置いてあるだけなのに。は微笑んではいるが、疲れを隠し切れないようで目元が少し重い。だが、その姿が妙に色っぽく見えた。

「ありがとう。今日はずいぶん遅くまで頑張っているんだね」
「ええ。お恥ずかしながら、定例会議の資料作成が間に合わなくて……。今し方、片がついたところなんです」

 定例会議というのは、毎月、月初の月曜日に行われいる会議のことだ。
 本当はこんな時間までが残っていた理由を赤司は知っていた。そして資料作成が遅れた理由は、新人がうっかりデータを上書きして消してしまったからだということも。本来、ねぎらわれるのはの方だろう。そう思いながら、カップに手を伸ばし、一口飲み込んだ。
 ふと、周りを見渡せば、と二人きり。フロア自体は広いが、大きなパーティションで区切られているため、人の声は聞こえていても姿は見えない。

さん」
「はい」

 赤司はパソコンの電源を落とし、立ち上がった。

さんはよく俺に気を遣ってくれるよね。なぜかな?」
「それは、大事な上司ですから」
「本当に?」
「……どうしたんですか。急に」

 明らかに狼狽え始めたを見て、想像が確信に変わりつつあった。人事に希望を出してここにやってきた。心地良い気遣いは他の社員にもしているのだろうと思いきや、彼女の様子を見ていると、どうやらそうでもないらしい。

── いったい、いつから? どこで俺を見た?

 記憶をほじくり返してみても、との接点は最近以外では思い当たらない。それでも過去にの中で何かがあったのだろう。すべてはの策略なのだから。そして赤司はその策略にしてやられたのだ。

「そろそろ帰ろうか。それから、」

 赤司はずいっとに歩み寄り、逃げられないように手首を掴んだ。

「今夜は一晩、つき合ってもらいたいんだが、構わないよね?」
「えっ、あの……赤司さん?」

 今までに見たことないくらい慌てているは、耳まで真っ赤に染めている。掴んでいる手首も小刻みに震えているが、決して恐怖からくるものではないということは、彼女の潤んだ瞳を見ていればわかる。

「嫌とは言わせないよ。これはもともと君が仕組んだ罠だろう? 俺を本気にさせたからには、きっちり落とし前をつけてもらわないと困るよ」

 そう言って、色の含んだ吐息を閉じ込めるようにの唇を塞ぐと、答えは然りと返ってくる。人に心を操られるのも、たまには悪くない。そう思うことができたのは、ひとえに彼女の人柄があったからなのかもしれない。だが、今、この瞬間から、その実権はこちらに譲っていただくことにしよう。