06:君の手が届くまで

 



 赤司は有名なチェーン店のカフェで席に着き、コーヒー片手にノートパソコンのキーボードを叩いていた。平日の夕方手前の店内は、混み合ってはいるがちらほらと空席を見つけることもできる。これからさらに人が増えていくのだろう。ここはそういうお店だ。
 急いで返さなければならないメールはすべて返し終えた。そろそろ会社へ戻ろうか。そう思い、残りのコーヒーを一気に飲み干そうとした時、手前の通路を颯爽と通り抜けていく女性の姿が目にとまった。

?」

 手にはテイクアウト用のカップを持っている。ためらう暇などなく、気がつけばとっさに声が出ていた。
 、と呼ばれて振り向いた彼女はで間違いなかったらしい。赤司を認めるなり、声にはならなかったものの、「あっ」というかたちに口許が動いた。

「赤司くん……?」
「ああ。驚いたよ。こんなところで会うだなんて」
「えっ、本当に赤司くんなの?」

 未だに信じられないという様子を見せるは、瞳をこれでもかというくらい開いている。マスカラでボリュームの増した睫毛にブラウンのアイシャドウ。ああ、彼女も大人の化粧を覚えたのだな。何より、秋口らしいトレンチコートが様になっている姿が、もうあの頃とは違うのだとささやいてくるようだった。

「仕事中、だよね?」
「ええ。広報の仕事でお得意様を回っていたの。帰る前にコーヒーを買いにきたところだったんだけど」
「時間は? よかったら少し話さないかい?」

 久しぶりに顔を見たら話したくなった。あくまでもそういう体を崩さずに提案すると、は腕時計に視線を落とした。

「15分くらいなら」
「十分」
「でも、赤司くんも仕事……」
「ちょうど今、俺も一段落ついたところなんだ」

 パタン、とノートパソコンを閉じると、はおずおずと正面の空席に腰を下ろした。
 久しぶりに話したくなったというのは、もちろん嘘ではない。だが、そこに下心がないと言ったら大嘘になる。こういうのは、女はすっぱり忘れて男の方が惨めに引きずるというではないか。 そう、は高校時代、赤司の恋人だった。 偶然だろうと必然だろうと関係ない。千載一遇のチャンス、誰が逃すものか。

「いつから東京に?」
「就職を機に。本当は京都を離れたくなかったんだけど、入社直前になってから東京行けって言われちゃって……。赤司くんは?」
「俺は元々、こっちに帰ってくるつもりだったから」
「そっか。赤司くん、家は東京なんだもんね」

 どこか遠くを見つめるような視線。その先には何を映し出しているのだろう。彼女の世界に、赤司征十郎という人間は存在しているのだろうか。カップの飲み口にほんのり差している紅色。彼女を女にしたのは、自分だけではないのかもしれない。

「彼氏は?」
「えっ?」

 だからだろうか。気がついたらそんなことを口走っていた。

「いや、すまない。女性に対して失礼だったね。忘れてくれ」

 謝っても後の祭り。しかし、は気にする様子を見せなかった。

「ああ、別にいいよ。私は気にしないから。……うん。いるよ。彼氏」

 目尻を下げ、柔和に微笑みながらはさらりと彼氏の存在を明かす。そして首から下げているネックレスを手に取り、赤司によく見せてきた。

「これ、彼からもらったものなの。かわいいでしょ?」

 言外に、私はあんたに未練なんてないからと言われているようで、想像以上にショックを受けている自分に赤司は気がついた。言葉の槍が突き刺さったようで胸が痛い。まるで、こちらが未練たらたらなことまで見透かされているようだ。それに、そんな笑顔で言わないで欲しい。言われてしまったら、

「そうだね。とてもよく似合っているよ」

 また火が点いてしまう。





―― 「もっと広い世界を見たいの」 ――

 高校を卒業して数ヶ月、その言葉とともに別れを告げられた。別の大学に進学し、はそこできっと、新しいものをたくさん見たのだろう。髪には緩やかなウェーブがかかり、素顔には色が載り始めた。自分を飾ることを覚え、もう檻の中にはいたくないのだと叫び出したは、自ら扉をこじ開け、外の世界へと飛び出していった。

―― 「赤司くんと一緒にいると、何て言うのかな……言葉が悪いけど、支配されていくみたいで怖いの」 ――

―― 「それに赤司くん、そんなに私のこと好きじゃなかったでしょ?」 ――

 馬鹿を言え。好きでもない相手とつき合うくらいなら、一人でいることを選ぶ。心の中で何度そう叫んでも、あの時は声に出すことをプライドが許さなかった。なんて貧相なプライドだ。そういうものほど、後で大きな後悔を生むことになる。
それなら今は? 今はプライドを捨てることができるのか? 
答えは然り。

 赤司は携帯を片手に取った。もう何年も開いていないのに、未だアドレス帳から消せずにいる名前 ―― 。繋がるかどうかは賭けだったが、赤司は通話発信の文字をタップした。

『……はい』

 数回のコールののち、それは繋がった。

?」
『赤司くん、だよね?』
「ああ」

 の声は戸惑いながらもしっかりしている。もしかしたらも赤司の名前を消せずにいたのかもしれない。だが、

『見覚えのある番号だと思ったけど、びっくりした』

 その言葉は赤司の淡い期待をあっけなく打ち砕いた。こちらの気など知る由もないは、「急にどうしたの? 何の用?」と気楽に訊いてくる。小首を傾げている姿が目に浮かんだ。
 出鼻を挫かれてしまったが、ここで沈んでいるわけにはいかない。赤司はすぐに気を取り直した。

「葉山や根武谷や実渕を覚えているかい?」
『赤司くんの先輩方だよね? 覚えているよ』
「先日、久しぶりにに会ったんだと話をしたら、皆もに会いたいと言い出してね。良かった今度、皆で飲みに行かないかという誘いだ。どうかな?」

 電話の向こう側での躊躇っている気配が窺えた。当然だろう。
 こんな風に彼らの名前を使わなければ誘いの連絡一つも入れられない。予防線を張ってしまうのは、明確なの拒絶を恐れているからだ。きっと、これが今打てる最善の策。それでも答えあぐねているに、もう一つ、手を打つ。

『男所帯に女性一人では心もとないだろう。も誰か友人を連れておいで」





「征ちゃんにも可愛いところあったのね」
「それな。でもどうせ俺たちは赤司のカモフラージュだろ?」
「まぁ、良いんじゃねぇの? 赤司も人の子だったってことだ」
「お前たち……」

 三者三様、好き放題言ってくれているのは、実渕、葉山、根武谷の三人だ。も含めて皆で飲みに行こうという企てが事後報告だったにもかかわらず、三人とも快諾をしてくれた。高校の頃から赤司のことをよく知る三人だ。すべての事情を察したのだろう。

「今回ばかりは大目に見ることにするよ」

 カジュアルな居酒屋の個室。駅から少し離れているのがネックではあるが、喧騒から離れている分、落ち着いて話をすることができて重宝している。もちろん、大前提として料理もおいしい。

ちゃんかぁ。高校卒業以来ね。実際、会うのは久しぶりだから楽しみだわ」

「友達も一緒にって言ってあんだろ?」
「ああ」
「俺はそっちの方に期待だな!」
「ちょっと小太郎! 下品よ!」

 友人を連れておいで。そう伝えると、はおずおずと「じゃあ、行こうかな」と小さく呟いた。本当は行きたいと思いながらも踏み切ることができず、誰かに背中を押して欲しそうな声だった。躊躇う理由はいくつか想像できるが、それを気にしてあげられるほど赤司はお人よしではない。

「こちらのお席になります」
「ありがとうございます」

 もう間もなく約束の時間という頃、が店員に連れられてやってきた。

「あれ? もしかして私が最後? 待たせちゃってごめんなさい」
「いいのよ。それよりちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです~。実渕先輩ですね。また一段と美しくなりましたね」
「うふふ。ありがとう」

 ひざ丈のワンピーズにカーディガン。派手とまではいかないが、先日見たオフィススタイルとはまるで違う華やかさだ。
は実渕の隣の空いているスペースに座った。

「ねね、。俺たちのことも覚えてる?」
「葉山先輩と根武谷先輩ですよね? もちろん覚えてますよ」
「つうか、一人なのか?」

 そうだ。それがずっと気になっていた。

「はい。みんな今日は都合が悪いみたいで」





「じゃあ皆さん、東京なんですね。そういえば、黛さんはどうしているんですか?」
「あの人も東京。一応、今日のことも声かけたんだけど、忙しいから無理だとさ」
「そうですか。ちょっと会いたかったな。黛さん」

 目の前にずらりとコース料理が並んでいるが、ほとんど皿には手をつけず、皆、グラスばかりを傾けていた。
 ここにきて新たな事実。は酒に強いらしい。実渕や葉山は顔に赤が差し始めているというのに、は先ほどからハイボールをガンガン飲んでいても顔色一つ変えていない。根武谷と良い勝負ができそうだ。

「さっきからずっと黙ってるけど、大丈夫? 赤司くん」

 皆の観察をしていると、ふいに声がかかる。気がつけば、正面に座っているが覗き込むように赤司の顔を見つめていた。上目遣いのまなざしが罪深い。

「いや、何でもないよ。は楽しんでるかい?」
「うん。久しぶりに皆さんと話せて楽しい。何だか懐かしいね。高校の頃を思い出しちゃう」

 高校の頃……。きっと、に他意はなかったのだろう。その思い出す高校の頃の光景、君の隣には誰がいる? 肩を並べて歩いた放課後の帰り道。試験期間になれば一緒に教科書を広げたりもした。我ながら高校生らしいつき合いをしていたと思う。そして共に過ごした時間は、決してなかったことにできるほど短くない。赤司の中でこれほど色濃く残っているのだから、の中ですべて消えてしまったということはないだろう。

、細くなったな」
「そうですか? まぁ確かに、高校の頃の体重が一番ピークでしたね」
「ちゃんと足りてるのか? 遠慮しないでもっと食えっ。ほらっ」

 根武谷はの前にどんどんお皿を並べていく。「さすがにこの量はちょっと……」と苦笑するは本当に楽しそうだ。
 劇的な変化はなくても、月日の流れは確実に人を変えていく。はバスケ部とは関わりのない場所にいて、赤司を介さなければ彼らと交わることはなかった。それほどに小さな繋がりで、当時は会話をしても弾むことはなかったのだが、今たどうだろう。笑い方や仕草は何一つとして変わらないのに、今のは赤司の知らないだった。

 盛り上がった場はそうそう収束することなく、気がつけばかなり時間が経っていた。

「あら、もうこんな時間。私、帰らなくちゃ。明日朝早いのよね」
「あ、俺も」
「何だ? みんな朝早いのか?」

 実渕を皮切りに、皆、時間を気にし始める。も腕時計に視線を落として「あっ」と声を上げた。

「私もそろそろ行かなくちゃ。私、ここからだと終電が早いの」

 あっという間にお開きムードになり、慌てて荷物をまとめて外へ飛び出した。また会おう。と言葉を残して実渕、葉山、根武谷はそそくさと駅へ走っていく。は三人とは別路線の私鉄を利用するため、駅が違う。そしてその路線は終電が早いことを赤司は知っていた。

「赤司くん、今日は誘ってくれてありがとう。楽しかったよ。またね」

 明らかに焦っているは早口に挨拶を述べると踵を返し、走り出そうとした。一歩前に踏み出したその瞬間、赤司はの腕を掴んでいた。は驚いて振り返る。

「ちょっと何? 私、急いでいるんだけど」
「知ってる」
「知ってるって……」

 掴んだ腕は、確かに高校の頃と比べると細くなっていた。横を通り抜けていく車のライトに照らされて、の首元がきらりと光る。

「彼氏がいるって、本当?」

 が店員に案内されて個室に入ってきた瞬間から、彼からもらったというネックレスを下げていることに気がついていた。そのくせ、誰も伴わずに現れ、行動が矛盾していることに本人は気づいているのだろうか。心の内を悟られないようにとふつうの顔をして笑って、化けの皮を被るのがうまくなったのも大人になった証拠なのかもしれない。それでもわかってしまう。を好きだと思う気持ちが消えない限りは、を見つめ続けてしまうから。

「離して。終電……」
「もう間に合わないよ」
「……」

 否定も肯定もしないは俯いたまま動かない。

「俺の家はここからそう遠くない。タクシーを拾って帰るつもりだが、どうする?」

 腕を掴んでいる手に力を込めると、はぱっと顔を上げた。怒っているような、悲しんでいるような、悔やんでいるような瞳。それは赤司を惹きつけるのに充分だった。ぐっと腕を引いて掠めるように口づけを一つ落とすと、はようやく腕を振り払って赤司から離れた。

「信じられない。赤司くんってこんな強引な人だったっけ?」
「たまには押さなければ手に入らないものもあるだろう?」
「どうせ全部、計算のうちだったんでしょ? 最初から私の嘘見破って、強引に行けば私が頷くって。ここを選んだのも私の終電が早いとわかっていたから」
「変わらないね。そういう賢いところ」
「赤司くんこそ、私の嘘を最後まで通させてくれたことなかったでしょ」
「そうだったかな」

 はネックレスを思いっきり引っ張った。細いチェーンはいとも容易く引きちぎれ、無惨にの手からぶら下がっている。

「これ、彼氏からもらったっていうのは本当なの。もう元カレだけど……。お気に入りでなかなか捨てられなくて、でもまさか、たまたま着けていた日に赤司くんと会うなんて思わなかった」

 そしてそれを近場のごみ捨て場に放り投げた。

「赤司くんを振ったのは私だよ? その口がもう一度、赤司くんとつき合いたいだなんて言えると思ってる?」

 は自分をあざけるように笑い、、今にも泣き出しそうに眉を下げた。もう大人の余裕はどこにもなく、誰かに守ってもらわなければ簡単に崩れてしまいそうながそこにはいた。それでも強がるようには赤司に向けて手を差し出した。

「手を取るなら、赤司くんから取って」

 赤司は思わずクスッと笑みを零してしまった。女性はいくつになっても可愛くて美しいと思う。そんな態度を取られたら、嫌と言われても手を伸ばしてしまうに決まってる。

は考えなかったのかい? 俺もとの関係をもう一度望んでいると」
「考えはしたけど、いくら何でも都合良すぎるじゃない」
「それもそうか」

 一歩踏み出しての手を引くと、の身体は簡単に腕の中に収まった。そして今度はしっかりと口づけを落とす。

「再会して確信したよ。俺はまだが好きだ。もう一度、つき合って欲しい」
「ずるいなぁ、もう……。私からもお願いします」

 一度離れてもう一度掴んだ手。今度はもう離さない。