05:成就するはずのない想い

 



 昼休み。普段はほとんど行くことのない特別教室の並ぶ棟の廊下を、赤司は歩いていた。急に生徒会で必要になった備品を取りに行くためだった。生徒会でそれなりの役に就いていたとしても、そこはやはり一年生は一年生。たかが色鉛筆一つのために美術準備室へ行き、埃っぽい十二色入りのケースを二つ手に取った。
 教室棟の喧騒とはかけ離れた静けさを放つ特別教室棟。それだけに、上階から流れてくるピアノの音が鮮明に耳に飛び込んできた。遠回りになることもいとわずに階段を上がり、音のする音楽室を覗いてみる。そこには黙々と鍵盤の上に指を滑らせる女子生徒がいた。まるで周りのことなど何一つ目にも耳にも入ってこない。完全に自分の世界に入り込んでいる。
 赤司は開いているドアからそっと入り、壁に背を預けた。音楽は言葉を超えるとよく言うけれど、それを体現しているような旋律に、思わず聴き入ってしまった。
 目を閉じ、静かに耳を傾ける。しかし、腕を組み直す際にうっかり手に持っていたものを柱にぶつけてしまった。それと同時にピアノの音が止まり、驚いた表情の彼女と目が合う。

「驚かせてすまない。近くを通ったら聞こえてきてね。つい聴き入ってしまった」
「あなたは、赤司くん?」

 壁から背を離し、邪魔して悪かったと言わんばかりに出ていこうとすると、彼女が声を上げた。

「僕のことを知っているのかい?」
「そりゃあね。この学校であなたのことを知らない人なんていないと思うけど」

 ゆったりとした口調で言いながら、譜面をめくってまたピアノを弾こうとする。赤司は壁にかかる時計に目を移した。色鉛筆が届かないことで生徒会の仕事が完全に滞ることはないだろう。それくらいの機転が利くメンバーが生徒会には揃っている。

「もう少し、聴いていっても良いかな?」
「どうぞ。お好きに」

 曲調が変わる。先ほどまでは穏やかな音色だったが、今度は打って変わって激しい。順調に奏でられるメロディはどこまでも続くと思ったが、途中でぴたりと止まってしまった。本人にしかわかり得ないようなミスでもあったのだろうか。そう思って彼女の方に目を向けると、彼女は両手で肩をさすっていた。開いた窓から風が舞い込み、白いカーテンを揺らしている。そういえば今日は少し肌寒い。

「閉めましょうか?」
「そうね。お願いしてもいいかしら」

 特に返事をせずに窓際に行くと、正面に見える教室の中で参考書を開いている生徒が何人も見えた。あそこはたしか三年生の教室だ。

「いいんですか? あなたも受験勉強をしなくて」

 彼女のことは知らない。だが、この洛山高校では学年によって校章の色が違うため、彼女が三年生だということはわかる。夏休みが明けた今、三年生は自らの進路を切り開くために昼休みを返上で勉強している者が多い。「皆、必死になってますよ」と言えば、彼女は小さく微笑んだ。

「いいのよ。これが私にとって受験勉強のようなものだから」
「ピアノを弾くことが?」
「ええ。私、音大を目指しているの。ドイツのね。そのためにはまず、国内のコンクールで入賞しないといけないの」

 ちらっと後ろの壁に視線をやる彼女。そこにはピアノコンクールのポスターが貼られていた。来月の頭に開催されるらしい。
 赤司は知らない世界だと思った。知らないと表現するよりは、馴染みがないと言った方がより近いような、とにかく、己を取り巻く世界とは違う場所に彼女はいるのだ。

「また、聴きに来ても良いですか?」
「それは構わないけど。でもあなた、生徒会や部活で忙しいのではないの?」
「四六時中、忙しいわけではありませんよ」
「そっか。それもそうね。お好きにどうぞ」

 多少は躊躇われるのかと思いきや、あっさりと快諾されて少し驚く。

「ギャラリーのいる方が、張り合いあると?」
「そういうわけではないわ。いてもいなくても同じだもの。あ、勘違いしないでね。コンクールのプレッシャーに比べたら、あなた一人くらいどうってことないって意味よ」

 だが、それ以上に彼女と接点を持てたことが嬉しかった。

「名前、訊いても良いですか?」
「名前? よ」

 その瞬間、赤司の中で奇妙な心持ちが広がった。





 翌月。あれから時間がある時は音楽室へ足を運び、何度かの奏でるメロディを聴いた。女性らしいほっそりした指からいったいどうやってあんな力強い音を出せるのか。その道に長けた人間の能力は常人にはとても計り知れない。
 洛山高校に入学して半年以上経つというのに、なぜ、今までの存在に気づかなかったのだろうか。たとえ音楽室に行かなかったとしても、風向きによっては遠く離れた場所でも彼女の奏でるメロディは聞こえてくるのだ。が音楽室でピアノを弾くのは、きっと今に始まったことではない。おそらく一年生の時からずっと弾いていた。それくらい、彼女の存在はあの音楽室に溶け込んでいた。それに気づけなかったということは、結局のところ、興味関心の薄いものには気づきにくいということなのだろう。

 コンクールの当日。は公欠という扱いで学校を休んでいた。という名前は知っていても、連絡先は知らない。激励の言葉をかけるタイミングには恵まれず、今日もこうして応援に行くこともできない。所詮、彼女との関係はそんなものなのだ。との接点は音楽室から発展することなく、に会いたければ音楽室へ行くしかなかった。

 赤司は放課後、携帯でインターネットにアクセスし、コンクール名を打ち込んで検索をかけた。そこには出場者名と曲目の他に、チカチカと点滅する文字で『速報 大会結果』が載せられていることに気がついた。迷わず、そこのリンクをたどると、最優秀賞:と記されていた。

 それから一週間ほど。その間も音楽室からピアノの音は聞こえていたが、なかなか足を運ぶことができずにいた。そんな中、廊下を歩いていると、職員室からが出てきた。手には茶封筒を持っている。

「あら、赤司くん。音楽室以外で会うのは初めてね」
「そうですね。……大学、決まったんですか?」

 茶封筒に視線を落としながら言うと、は「ええ」と声を上げて微笑んだ。

「何とかね。推薦枠を勝ち取ることができたわ」

 ほっと息をつくような笑い方に、今まで相当な重荷が肩に乗っていたのだろうと赤司は思った。

「良かったですね。コンクールの方も、最優秀賞、おめでとうございます」
「知っていたんだ。ありがとう」
「これからまた音楽室ですか?」
「ええ。久しぶりに自由に弾いてくるわ」

 残念だ。あと少しでこの学校からはいなくなり、あのピアノの音ももう二度と聴けなくなってしまうのか。
 もっと早くのことを知りたかったと思うのと同時に、今、知れて良かったとも思う。過去を嘆いたところで今も未来も変わらないのなら、せめて、彼女を知らずに終わらなくて良かったと思いたい。

「本当にピアノが好きなんですね」
「大好きよ」

 きっと、彼女は何があっても最終的にはピアノを選んでしまうのだろう。理屈とかそんなものは抜きに。そういう感覚、何となくだがわかる気がする。
 奇妙な心持ちの正体は、とうの昔に気づいている。そしてこの気持ちを伝えた時にどんな答えが返ってくるのかも。

「あなたが好きです」
「えっ?」

 時が止まる。それに抗うように言葉を重ねる。

「あなたが好きなんです」

 茶封筒を抱える彼女の手に力がこもる。真一文字に唇を結び、まっすぐ赤司を見つめていた。

「とても……、私にはもったいないくらいの言葉で、とてもありがたいのだけど、」
「わかっています」

 の言葉を遮り、赤司は告げた。

「春になればあなたはドイツに渡る。そのうち僕と交わしたやり取りなど忘れてしまうでしょう」

 たとえ、この気持ちが届いたとしても、見返りがないことは最初からわかっていた。きっと彼女はすぐに忘れてしまう。それでも、赤司征十郎という存在を少しでも印象深く植え付けておきたいと思った。これは落としどころをつけるための自己満足な告白だ。

「ごめんなさい。私、今はピアノのことしか考えられないの」
「あなたの答えなど、最初からわかっていました。それでも伝えたかったんです」

 ピアノを見つめる視線が優しかったから。鍵盤に触れる指先が優しかったから。ピアノに恋する彼女が美しかったから。

「あなたはそのままのあなたでいてください」