03:どうしようもなく溢れ出すもの
「、昼休みに今集めたプリントを取りに来てくれ。それまでにチェック終わらせておくから」
「はい。わかりました」
一時限目の地理の授業。今し方集めた宿題のプリントを教卓の上で整えながら、教師が“いつもの”指示を出した。そこかしこからは、「まただよ」「あの先生、絶対ちゃんのこと好きだよね」というひそひそ声が聞こえてくる。本人は何も言わないものの、このクラスの地理の教科担任がを好いているのは、誰の目から見ても明らかだった。
ここまであからさまな好意を見せてくるのは当事者でなくても不快に思うらしく、生徒たちは不信な視線を教師に向ける。それから哀れな視線を赤司に向けた。これもいつものことだ。は何を考えているのかわからない表情で教科書を机の中へ片づけていた。
と赤司がつき合っているというのは、もはやこの学校全体で周知の事実だった。つき合いはもう一年以上。例の教師は今年、新任でこの学校に赴任してきたので、彼が来るよりも前から二人はつき合っていた。つき合い当初を知らなかったとしても、と赤司の様子を見ていれば二人の関係がどういうものなのかすぐにわかるはずだ。それにも関わらず、人目を憚らずにあの教師はに好意を寄せている。
「、社会科準備室へ行くのだろう? オレも一緒に行くよ」
昼休みに入り、がお弁当を取り出したところで赤司は声をかけた。
「うん。これ食べたら行くつもりだけど。いいよ、私一人で。持てない量じゃないし」
赤司がどういう意図でに話しかけているのか、わからないわけではないだろうに、のこの態度。つき合いが長くなればなるほど、が何を考えているのか赤司にはわからなかった。
「いや、一緒に行かせて欲しい。体育館へ練習に行くついでに」
「そう? 赤司くんがそこまで言うなら別にいいけど。……お弁当、一緒に食べる?」
「ああ」
は赤司の手にもお弁当の包みがぶら下がっているのを見て、そう提案した。
告白は赤司からだった。自信がなかったわけではないが、如何せん、表情が乏しい。そもそも人を好きになる感情を持っているのか疑問だったのだが、答えはあっさりOKだった。
を気にかけるきっかけとなったのは、その美貌だということは否定できない。それほどには美人だった。一つ目にとまれば、次から次へといろんなものに目がとまるようになる。は感情がわからない代わりに態度は親切だった。今も追い払うわけでもなく一緒にお弁当を食べようと言ってきたのも彼女なりの親切心だろう。
※
「オレはここで待ってるよ」
「早く体育館に行かないと昼休み終わっちゃうよ」
「そう思ってくれるなら、早く行ってきてくれないかな」
「そう」
お弁当を食べ終え、社会科準備室まで来ると、タイミングが悪いことにあの教師一人しかいなかった。一人で行かせるのは避けたいところだが、そこまでしゃしゃり出るのもいかがなものかと思い、仕方なく出入り口付近に留まる。
「失礼します」
「お、来たか」
の声に教師は顔を上げる。その瞬間、ぱっと表情が明るくなった。誰がどう見ても、あれは恋をしている顔だ。彼はそれを隠すつもりがないのか隠せずにいるのか、そこのところはわからないが、赤司自身が不愉快であることは確かだった。
教師は席を立ち、併設されている湯沸しスペースの食器棚からマグカップを出そうとした。
「お茶出してやるから、ちょっと座っていかないか」
「すみません。ありがたい話ですけど、友達が待ってますから」
その会話ののち、教師の視線が赤司の方へ向いた。
「持っていくプリントはそれですよね?」
「あ、ああ」
は用件だけ澄ますと、さっさと廊下へ出てきてしまった。教師は食器棚に手をかけたまま固まっている。は振り返らない。
「お待たせ」
「良かったのか? お茶」
「いいよ。別に飲みたいわけじゃないし。それに、これ以上、赤司くんの貴重な時間潰すの嫌だし」
それを聞いて、敵わないなと思う。を好きになって、心を保つのが難しく嫌になる瞬間は多々ある。それでも時折見せるの気遣いがたまらなく好きだと思ってしまう。
「私は一人で教室に戻るから、赤司くんは体育館に行って。練習、頑張ってね」
「ああ。ありがとう」
※
誰だってその容姿で生まれてくることを望んでいるわけではない。
「その容姿だと苦労も多そうだね」
いつだったか、の横顔を見つめながらそう言うと、は至極驚いた表情を見せた。
「そういうふうに言われたの、初めて」
「そうなのかい?」
「羨ましがられることはあっても、悲観的な言葉をもらうことはなかった」
つまりはやはり、苦労も多かったのだろう。望まない視線を幾度となく浴び、半ば、諦めているのかもしれない。
その日の部活の練習を終えた赤司は、エナメルバッグを肩から下げ、廊下を歩いていた。人気はなく、外もすっかり夜の帳が下りている。と帰る約束をしていたのだが、待ち合わせの昇降口に行ってもの姿がなく、探しているところだった。携帯にはどこにいるのかとメールを入れたが、まだ返事はない。
二人の教室の方へ行くと、話声が聞こえてきた。教室の灯りは消えている。先ほどまでここにいて、出たところで話し込んでいる。そんなところだろうか。
その事実だけが並んでいるのなら、何も気にとめることなく脇を通り抜けていくのだが、声の主がとあの教師だったために、赤司の足はその場で止まった。
「こんな時間まで勉強? 一人で?」
「はい。友達の部活が終わるの待ってたんで」
「友達ねぇ。……赤司、かな?」
「……そうですけど」
しかもとんでもないタイミングに出くわしてしまったようだ。だが、もしかしたらこれはチャンスなのかもしれない。
「君たちはずいぶん仲が良いみたいだね。大丈夫?」
「何がですか?」
「行き過ぎた交際に発展していないか……」
「節度はちゃんと守っているつもりですよ。先生」
ここぞというタイミングで赤司は二人の会話に介入した。二人は当然、驚いている。特に教師の驚き方は尋常ではなかった。しかし、それも束の間。次の瞬間には深い笑みを浮かべていた。薄暗い廊下に浮かぶそれは、少々気味が悪い。
「驚かせないでくれよ赤司。はお前を待っていたそうだな」
「ええ。一緒に帰る約束をしてましたから」
「一緒に帰る、か。青いね」
「まだ高校生ですから」
今までも幾度となく教師自体に腹を立てていたが、今日ばかりは自分自身にも腹が立った。年上の余裕とでもいうのだろうか。たとえ今つき合っているのが赤司だったとしても、時が来ればいつでもを奪えるんだぞ、と言外に言われているような気がした。
もちろん、普段の赤司なら年上だからといって怯むことはないのだが、の心がどこにあるのかがわからない以上、不安を拭い去ることができなかった。しかし、そんな赤司の不安を吹き消すような行動に出たのもだった。
「赤司くん、帰ろう。ごめんね。メールくれてたのに返せなくて」
「ああ。それは構わないよ」
「気をつけて帰れよ。もうだいぶ暗いから」
は教師に背を向けて、赤司へと歩み寄った。それから「先生」と声をかけ、赤司の手を取り、正面から赤司に身体を寄せた。赤司も何が起きたのかと戸惑い、教師もこれでもかというくらい目を見開いている。
「他を当たってください」
「えっ?」
そして睨みつけるように教師を見据えては言い放つ。
「私、赤司くんが好きなんです。とても。赤司くん以外に心が動くなんてこと、しばらくは考えられないんです」
沈黙が空間を支配した。喉から手が出るほど欲しいと思っていた言葉を聞けたというのに、何一つ声を発することができない。それどころか、今の言葉は本当なのだろうかと疑ってしまうほど、赤司の心は乱されていた。
「さ、帰りましょう」
男二人が動けない中、は赤司の手を取って歩き始めた。まだ放心している教師をその場に残して。
校門を抜けてからもしばらく無言だった。はまたいつものように何を考えているのかよくわからない無表情に戻っている。もしかしたら、自分はとんでもない人を好きになってしまったのかもしれない。ふとそんなことを今さらのように思った。
「私、わかりにくくてごめんね」
「えっ?」
「さっき言ったこと、嘘じゃないから」
言葉だけを信じるのは難しい。特に一度疑いを持ってしまったことに関しては、どんなに綺麗な言葉を並べられても信じるのは容易くない。だが、月夜に照らされて、流れる髪の隙間から覗かせる耳が赤く染まっているのを見たら、陳腐な疑いはあっという間にどこかへ行ってしまった。
「参ったな」
「えっ?」
「いや、何でもないよ。ますます君を好きになってしまっただけだ」