02:私の心に触れてこないで

 



 帰宅時間が早くなることはめったにない。毎晩、遅くまで会社に詰め、時にパソコン、時に書類と向き合い、時に接待で会食の席に着くこともある。仕事人間、と言われてしまっても無理はないが、それでも休日は休日として取ると決めているつもりだった。しかし、決めているだけで、実際は事あるごとに休日も出勤せざる得ない日があるのもまた事実だった。
 前の休日はまさにそれだった。急なトラブルに見舞われ、結局、仕事に終わってしまった。取り立てて予定を立てていたわけではないが、久しぶりにとゆっくり家で過ごそうと約束していただけに、申し訳なさが募る。

「仕事だもんね。仕方ないよね」
「すまない」
「いいよいいよ、気にしないで。そのかわり、サッと行ってサッと終わらせてきて。夜くらいゆっくりしよう? ご飯つくって待ってるから」

 いつものように謝れば、はいつもはにかみながらそう言ってくれる。の優しさに甘え、己のことばかりにかまけていたからだろう。事態が最悪になるまで、少しずつ少しずつ、二人の関係にほころびが生じていたことにまったく気がついていなかった。

 その日、同棲するマンションに帰宅すると、赤司を待っていたのは真っ暗な部屋だった。いつもならはダイニングの電気を点けて待っていてくれるはずなのに。
 具合が悪くて寝ているのだろうか。そう思って寝室を覗いてみてもベッドはもぬけの殻。首を傾げながらダイニングに戻ると、テーブルの上に置かれている一枚のメモ書きが目に入った。

『しばらくしたら帰ってきます』

 それを見た瞬間、背筋がゾッと冷たくなった。はっとして携帯を取り出し、慌ててにコールしてみるが、繋がらず。それならばとメッセージを送る。これで素直に返事が来るのなら、出ていった意味がない。当然のようにその後、から連絡が入ることはなかった。
 しばらくしてもう一度携帯を手に取ってみると、変わらず何の音沙汰はなかったものの、先ほど送ったメッセージには既読がついていた。とりあえず、どこかで無事にいることは確からしい。赤司はほっと胸をなで下ろした。





「いいっスよね~、赤司っちは。もう結婚は秒読み段階なんでしょ?」

 と連絡が取れなくなってから数日後の土曜日。赤司は中学時代のメンツと顔を合わせていた。テーブルを囲んでいるのは、黒子、青峰、黄瀬と赤司の四人。皆で集まろうという話は随分前から出ていたが、社会人となった今はそう都合をつけることができず、今回は紫原と緑間が不在だった。

「同棲しているんですよね?」
「どうせお前のことだから、プロポーズのシミュレーションも完璧なんだろ? 聞かせろよ」
「いいな~。俺も赤司っちのプロポーズ、聞きたいっス」
「僕が言うのもなんですけど、さん、絶対良いお嫁さんになると思います」

 皆、のことを知っているだけに言いたい放題である。
 同棲を始める少し前にを紹介した時のことをふと思い出す。あの時は珍しくフルメンバーが集まり、いつもよりちょっと贅沢にオシャレな居酒屋の個室だった。「赤司くんは本当にさんのことが好きなんですね」「赤司っちのどこに惚れたんスか? ねぇねぇっ」そんなふうにちやほやされて言葉を詰まらせていたが今は懐かしい。
 間が悪いとは、こういうことを言うのだろうか。それこそ本来なら、今日この場で近々結婚を申し込むつもりだと報告するつもりでいたというのに、このザマだ。

「いや、どうだろうね。には出ていかれてしまったよ」

 その言葉で、場の空気が一瞬にして凍りついた。

「は? どういうことっスか?」
「そのままの意味だよ。先日、帰宅したら置き手紙があってがいなくなっていたんだ」

 ありのままの事実を伝えると、皆、妙な顔つきに変わった。黄瀬なんかはあんぐりと口を開け、手に持っていた箸が転がり落ちた。食器とぶつかり、行儀の悪い音が異様に響いたのは、誰もが口を閉ざしていたからだろう。しかし、その沈黙も束の間、黄瀬が大げさに騒ぎ始めて一気に場が雰囲気が変わった。

「はああああっ? 何で追いかけなかったんスか!?」
「つうか、こんなところで飲んでる場合じゃねーだろ、それ」
「連絡はしたさ。だが、既読がつくばかりで返事は来ないんだ」
「いや、そうじゃなくて! おかしいっスよ! 赤司っち!」
「なぜお前がそんなに慌てているんだ?」

 それでもやはり、取り乱しているのは黄瀬だけで、青峰はどうでもよさそうに耳をほじり、黒子は静かにグラスを傾け、から揚げを口の中に放り込んでいた。そしてもぐもぐさせながら、黒子は冷静に言う。

「赤司くん。おそらく黄瀬くんは、同棲している彼女に出ていかれてどうしてそんなに落ち着いていられるんですか? って言いたいんだと思います」
「そう! それ! さすが黒子っち」

 落ち着いている。周りから自分はそう見えているのか?

「これでも十分、取り乱しているつもりなんだが」
「それだろ。原因は。お前が淡泊すぎるんだよ」
「淡泊? そんなわけな」
「お前はそう思っていても、周りからはそう見えてんだよ」
「そうっスよ。結婚を意識した相手なら、なおのこと、何考えてるのかわからなかったら不安にもなるっスよ」

 目からうろこ、とまではいかなくても、黄瀬と青峰の意見は盲点だった。
 ……。
 今頃、どこで何をしているんだろう。相変わらず携帯電話は沈黙を守ったまま、何の連絡も告げてくれない。繋がりを持てない携帯など、ただの無機質な箱ではないか。

「でも、安心しました。赤司くんも案外、馬鹿だったんですね」
「おうテツ、珍しくバスケ以外で意見が合うじゃねーか」
「俺も同意見っス」

 こうもずけずけとものを申してくる友人を持てたのは、幸いと捉えるべきなのだろうか。

「これはさんのプライバシーにかかわることなのでずっと黙っていたんですが……。以前、さんは、赤司くんは何重にも壁をつくってるみたいで心が見えづらいと悩んでいたことがありましたよ」
「そーそー。赤司っち、知らぬ間にっちのこと傷つけてるっスよ。絶対」
「特にさんはとても我慢強い方ですから、きっと、最後まで本音を言いませんよ」

 こんなにも人の言葉が心に刺さってくるのは久しぶりの感覚だった。が黒子に悩みを零していたのは些かショックだったが、それ以上に彼らの優れた観察眼に感服した。

「そうだね。貴重な意見をありがとう。には何とか連絡を取って話してみるよ」





 勘定を済ませて外へ出ると、あっという間に解散になった。赤司は黒子と同じ電車に乗り、先に降りた黒子に見送られてから自宅最寄り駅に降り立った。
 駅前の大通りを歩きながら携帯電話を取り出す。この先の角を曲がれば、閑静な住宅街に入ってしまう。電話をかけるなら今しかない。

 何度かけても繋がらなかった電話。それでもかけ続けてきたのは、かけることをやめてしまったら二度と繋がらなくなってしまうからだ。
 諦め半分。期待半分。耳に当ててコール音を聞くこと数回。久しぶりにプツッと繋がる音が聞こえた。

?」
『……うん』

 会わなかったのはたった数日だけなのに、の声がひどく懐かしい。ざわついていた心が落ち着いていくような気がした。

「大事はないかい? 心配したよ」
『征十郎さん、怒っていないの?』
「それは逆だろう。が怒ったから出ていったのではないのかい?」
『そんな、怒るだなんて……。それこそ逆よ。飛び出したのは自分に嫌気が差しただけ』

 怒るよりも先に自分を責めてしまう。そうだ。はそういう人だった。今さらのように思い出し、己にかまけての本質を完全に見失っていたことを赤司は反省した。

。無意識とはいえ、俺はを遠ざけてしまっていたみたいだね。すまなかった」
『やだ。謝らないでよ。それはお互いさまなんだから。私だって本音をなかなか言わなかったんだもの。それにさ、私、征十郎さんのそういう繊細なところ、好きなんだよ? それを嫌だと思ってしまった自分が私は嫌だったの』
……」
『だって、言ったって私たち、赤の他人なんだよ? そう簡単にすべてをさらけ出すことなんてできないでしょ。……でも、これからはちょっとずつでいいから心を開いていけたらいいな』

 やっぱりだ。には到底、敵わない。氷山のようにカチカチに固まった心を、は丁寧に溶かしてくれる。こんな最高の恋人を自ら失うなどあり得ない。それは馬鹿以下がやることだ。
 次にポロリと零れた言葉は、紛れもなく赤司の本音だった。

。今すぐ会いたいよ。帰ってきてくれないかな」
『……あの、実は今、マンションの前にいるの。鍵、忘れて出ていっちゃってて、』

 最後まで聞く前に赤司は駆け出していた。
 が帰ってきている。マンションの共用玄関は暗唱番号を入力すれば開く。つまり、は自宅玄関の前で立ち尽くしているのだろう。
 すれ違う人の奇異な視線を振り払い、一直線にの元へと走る。エントランスを抜けてエレベーターを呼ぶが、こういう時に限って上階にいるエレベーターはなかなか下りてきてくれない。もどかしさに歯ぎしりしながらようやく最上階の十一階にたどり着くと、そこには携帯を握りしめたままのがいた。

っ」

 驚くに構わず、身体を引き寄せて抱きしめた。の身体からは、夜風の匂いがした。どれほどの時間、ここでこうしていたのだろうか。無人の部屋に愛想を尽かさずに待っていてくれたことが嬉しい。

「征十郎さん。とりあえず、鍵を開けてもらっていいかな」
「あ、ああ。すまない」

 さらに腕の力を強めようとすると、は赤司の肩口でくぐもった声を上げた。
 わずかに冷静さを取り戻した赤司は、いったんを離し、ドアのロックを外した。

「寒かったでしょ? すぐにお風呂湧かすね」

 それはの方だろう、と思ったが、今はの言葉に素直に甘えたいと思った。
 二人で並んで二人の部屋に入り、また施錠する。その間には先に上がり、バスルームへ入っていった。
 廊下で振り返り、玄関のたたきに目を向けると、そこには久しぶりに二人分の靴が並んでいた。